主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば
2025年12月25日 - サイト管理者主の降誕(日中のミサ) 福音朗読 ヨハネ1章1~18節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国でおこなわれていた異教の冬至の祭りをキリスト教化したのが始まりです。キリスト教がローマ帝国に広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ土着の太陽神の祭りをキリスト教に取り込むことで、民衆の支持を得るという政治的な目的で始まったものです。それが今では、キリスト教の2つの大きな祭日となっています。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。最初に書かれたマルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての記述はありません。そこからしても、初代教会はイエスさまの出自について、関心をもっていなかったことがわかります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスさまへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのは自然なことだと思います。教会が最初から祝ってきたのはイエスさまの復活であり、その視点から主の降誕を見なければならないと思います。
主の降誕で祝うのはイエスさまの誕生ではなく、神が人間の救いのために人間となった受肉という出来事です。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。今日、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所ですが、伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるロゴスの永遠の存在、創造への参与、そしてロゴスの受肉を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれるみことばの受肉を、主の降誕として祝うというものです。そこで、今日は神が人となる受肉の神秘の深みに入っていきたいと思います。そして、この受肉という出来事が具体的にどういうことなのかを見ていきたいと思います。
わたしたちが祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかで、もっとも弱い立場におかれ、貧しく見捨てられ堕落しているものの象徴でした。ヨゼフとマリアは人口調査のために実家の村に帰るわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋にさえ泊まれませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では家族や一族を大切にします。ですから、普通実家に帰ったら、しかも妻が妊娠しているというのであれば、一族を上げて歓迎します。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親戚は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。ベトレヘムの人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であると知っていたということなのです。だから、律法に背いた堕落した罪人たちを受けいれれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受けいれようとしなかったのです。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、これが第一の現実です。
わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれます。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる汚い餌箱に寝かされたのです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、喜ばれない、望まれない誕生であったのです。ヨゼフとマリアにしても、血のつながりのないこの幼子の誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と出来事を描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかし、ベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれのベトレヘムなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げていきます。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。その糞まみれの現実のなかにイエスさまが入ってこられます。というかイエスさまはその現実そのものとなられるのです。ですから、イエスさまはすべての人の救い主なのです。
イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住して農耕生活に移行していく中で、羊飼いという仕事は奴隷や貧しい人々、罪人と呼ばれる人たちにさせるようになっていきます。律法を守るという観点からすると、羊飼いたちは移動して仕事をしなければなりませんから安息日を守れません。ですから、律法を破らないと仕事ができないのです。ですから、生きていくためにどうしても罪を犯さざるを得なかった人たちが羊飼いでした。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については問題にして声をあげます。そして、不正義や被害者救済については考えますが、加害者となった人たちや生きることで罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちでした。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてくることはできません。わたしたちが、今、キリスト者として教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。わたしは立場が変われば何をしでかすかわからない、そのような存在なのです。
だからイエスさまの救いはすべての人々のものなのです。イエスさまの救いは善意の人々だけでなく、生きるためには罪を犯さないでいられなかった人、またわたしたちを殺そうとして向かってくる人、自分で自分のいのちを絶たなければならない人、そのような誰をも何をも排除しないすべての生きとし生けるもののためなのです。わたしたちが悪とか、罪とか決めつけているものは、実はわたしたちの兄弟姉妹であり、わたし自身であるということなのです。この世界、この宇宙の何ひとつでも欠けていればわたしは存在し生きていくことはできません。わたしたちは皆、お互いに繋がっているのです。イエスさまはそのようなこの世界、この宇宙、このわたしたちとなられたのです。イエスさまはすべての人の救い主ですから、すべてとなられたのです。そのためにイエスさまは、まさにこの苦しみ悲惨に満ちた、加害者であり被害者であり傍観者であるわたしに、堕落した罪人であるわたしのために不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)となられたのです。それは誰も排除しない、何も妨げない、それがクリスマスの意味です。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞まみれでしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、悩み苦しむ罪人であるわたしとなって、わたしのなかにお生まれになるのです。イエスさまはわたしとなられたのです。わたしはイエスさまではありませんが、イエスさまはわたしとなってわたしを救われるのです。
わたしたちはこの迷いの世界から自分の力で出ることはできません。迷い傷つき苦しんでいるわたしたち人間に真実のことばとなって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストです。ですから、この方はみことば、真理、いのち、光と呼ばれています。みことがはすべてのものを新たに創り出す力、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものを遍く照らす光、まことの真理といわれます。その方が迷っているわたしたち人間となって、この迷いの世界に来られた、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い苦しんでいるわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちを主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。
