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教会からのお知らせ

主の公現 勧めのことば

2026年01月04日 - サイト管理者

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現の祝日は伝統的には1月6日に祝われ、12月25日の主の降誕の祝日より起源が古く、救い主イエスのこの世界への現れを祝う重要な祝日でした。つまり、古代教会ではイエスさまの誕生そのものよりも、イエスさまがご自身をこの世界に公に現れたことが重要なことだったのです。それをもっと神学的に、また本質的に示すものは、主のお告げのお祝い日です。これは公会議前までは、マリアへのお告げの祝日として、マリアのお祝い日になっていました。しかし、お告げのお祝い日はマリアのお祝い日ではなく、「神のみことばが人となり、わたしたちの間に住まわれたこと」を祝う、もっとも本質的なイエスさまのお祝い日なのです。教会の中でお祝い日というと、聖人方のお祝い日だと思われがちですが、根本的なお祝い日は神さまのこの世界への働きかけ、救いの出来事を記念するということです。現在のカトリック教会の祝日は、救いの歴史から微妙に焦点がずれた祝い方をしているということになります。キリスト教のもっとも根本的なお祝い日が復活祭で、イエスさまの受難と死によってイエスさまの愛が永遠化されたことを祝いますが、実はイエスさまの復活によってその愛が永遠化されたのではなく、もともとイエスさまの愛は永遠であることを祝うのです。

わたしたちは神の愛の神秘を、主のお告げ、主の降誕、主の公現、主の洗礼、主の受難と復活、聖霊降臨として、時系列の出来事として祝っていきます。しかし「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書かれていること、つまり神さまが神さまであること、つまり神さまが愛であることを人類わたしたちに現されたこと、それが主の公現のお祝い日の意味なのです。神さまが神さまであることが公になることが神の栄光です。神の栄光とは神さまのお喜びであるということなのです。ではどのように栄光が現されるかというと、神さまが人間となってわたしたちの間に宿られたことによってです。つまり、わたしたち人間、またこの世界は神さまの愛を現しているということです。何処の誰であってもその人は神さまのいのちを宿しており、人間と不可分であるこの世界もまた神さまのいのちを宿しており、神さまの愛を現しているということなのです。洗礼を受けてキリスト者になった人たちだけのことではないのです。神さまの愛は、神さまの救いは無限です。しかしどの宗教でも、自分たちの教えが一番正しいとか、自分たちの宗教でしか救われないというようないい方をします。そうすると、せっかくのイエスさまの愛を限られたものにしてしまう危険があるのです。

東から来た占星術の学者たちは、伝統的な絵画では、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸から、アジア大陸から来た人として描かれています。または青年、壮年、老人として描かれています。つまり、イエスさまは全人類の救い主であることをいおうとしているのです。ユダヤ人やキリスト教の人たちだけのためではありません。彼らは星に導かれて、まことの普遍的真理であるイエスさまを見出しました。この普遍的真理はすべての生きとし生けるものを遍く照らし、生かしている真理です。普遍的な真理は誰のものでもない、すべての人のものです。ですから、そのような真理を見出したなら、いかなる権威、地位、学問、制度といった人間的な何かによって認めてもらう必要がありません。ですから、占星術の学者たちは自分の冠を投げ出して、イエスさまの前に自らを投げ出して礼拝します。そして、もはやヘロデのもとに戻る必要がありませんから、別の道を通って自分の生活の場に帰っていきました。

しかし、多くの宗教がその真理を証しすることから少しずつ離れ、人間的なものに拘り、教えるための宗教、聖職者のための宗教、教団のための宗教に堕落していきました。それは、自分自身が絶えまなく真理に触れることを怠ったがゆえの結果です。その真理を自分たちのものだと思い込み、自分たちのものとして独占しようとするとき、その真理はもはや普遍的な真理ではなく、有限な人間の手垢にまみれたものになってしまうのです。それが、宗教の中の分派、派閥、グループ、偏った教義を生み出していきました。

宗教というのは、一定の教義を受け入れて信じるというようなことではなく、わたしたちが大宇宙、広大無辺ないのち、愛の力によって生かされているということへの自覚に他なりません。イエスさまは、そのような宇宙の広大無辺ないのちそのもの、真理そのものとして、ひとりのか弱い幼子のうちにご自身を現わされたのです。その真理との出会いはわたしたちの努力によるのではなく、恵みによってだけなされます。わたしたちはキリスト教というひとつの宗教を通して、その宇宙的真理に触れさせていただいているのです。ですから、キリスト教だけが素晴らしいとか、カトリックだけが唯一の救いだという必要はないのです。そのようなことをいい出すと、真理の教えは人間の手垢にまみれた抹香臭い教えになってしまいます。イエスさまの教えに、抹香臭い匂いなどあるはずがありません。しかし、現実には人間の匂いがくっついてくるのです。イエスさまの教えを抹香臭くしているのは、人間の匂い、わたしの匂いなのです。

イエスさまは完全な真理、愛の人であるというのは、この「わたし」という匂いがしないということなのです。その姿が幼子です。幼子は、「わたし」という意識をもつ以前のいのちそのものです。ですから、わたしという匂いがしません。ですからわたしが「こうしたら救われる」とか、「ああだから救われる」というような教えにはならないのです。「ああだ」「こうだ」と考えているのは、すべて「わたし」であって、そのわたしが匂いをつけているだけであって、わたしという匂いがない状態を救いというのです。わたしたちは自分でこうしよう、ああしようと思ってこの世に生まれてきたわけではありません。そんなことを思わず、ただあるがまま自然に生まれてきたのではないでしょうか。真理を見出すということは、この存在自体の安らかさをわたしたちが、もう一度体験することではないでしょうか。イエスさまにまかせる、イエスさまを信頼するというはそういうことだといえるでしょう。難しい教え、神学、理屈ではありません。幼いイエスさまは、わたしという匂いのないその姿をもって、真理であるご自身を現しておられます。実にイエスさまは特別なことの中ではなく、あるがままの自然の中に、すべての人の中に、すべてのものの中にご自身を現しておられるのです。

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