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教会からのお知らせ

四旬節第2主日の聖書朗読と勧めの言葉

2020年03月08日 - サイト管理者

高野教会の信徒の皆様

いかがお過ごしでしょうか。
ミサもありませんので、主日の聖書の個所を読んで、黙想するということが勧められていますが、その一助となればと思い、メールを送信いたします。(送信しましたメールをHPにも掲載いたします)

カトリック東京大司教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。

https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/36988/

どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに四旬節をお過ごしくださいませ。

高野教会役員会

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第1朗読 創世記 12章1~4a節
(その日、)主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

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第2朗読 テモテへの手紙2 1章8b~10節

(愛する者よ、)神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

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福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節
(そのとき,)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、
「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」
と弟子たちに命じられた。

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<勧めの言葉> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日はイエスさまのご変容の個所が朗読されます。イエスさまがガリラヤでの宣教に終止符を打ち、エルサレムの都へ向かう決意をし、その途上でご変容の出来事があったことがしるされています。イエスさまは高い山で、弟子たちに栄光に輝くご自身の姿を見せられました。その目的は何だったのでしょうか。栄光という言葉自体は、一般的には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のことを指しています。元々日本語にはあんまりなじみのない言葉です。
イエスさまがエルサレムに向かおうとされた時点で、弟子たちが考えていたのは、いよいよ、イエスさまがガリラヤでの活動を終えて、エルサレムに政権を取るために向かわれるのだというような思いでした。弟子たちは、イエスさまのことをローマ帝国の支配下から解放してくれる革命家のリーダーだと思っていました。そして、イエスさまの企てが成功すれば、あわよくば自分たちが政権を握ろうと思っていたのでした。それこそまさに、先週の日曜日の荒れ野の誘惑で悪魔がイエスを試した3番目の誘惑、人間的な価値観、考え方、やり方を推し進めることに他なりません。つまり質より量、少ないことよりも多いことを、小さいことよりも大きいこと、弱いことよりも強いこと、出来ないことよりも出来ることという量の価値観を選ぶということです。弟子たちはそれの価値観、野望に捕らわれていました。つまり、イエスさまと一緒に居ながら、何もイエスさまに耳を傾けていなかったのです。だから、イエスさまの栄光の姿をあえて愚かな弟子たちに見せ、とにかく先ずイエスさまに聞くことを求められたのではないでしょうか。
わたしたちはとかくすれば社会の人間的な価値観に目を奪われがちです。人がたくさん集まればいいとか、うまくいけばいいとか、結果が出ればよいとか考えがちです。でも、それはイエスさまの価値観ではありません。イエスさまがエルサレムに行かれるのは、成功を収めるためではありません。むしろご自分の死を通して、復活のいのちへと移っていくという過越しによって、わたしたちひとりひとりの救いを実現していくためです。イエスさま一人の死が、すべての人にいのちをもたらしました。イエスの栄光というものは、ご自分の全く無駄と思えるような死を通して、すべての人にいのちをもたらすことでした。イエスの栄光は人間的な成功や勝利を修めること、結果を出すことではありません。まさにごく小さいことを大切にしていくことなのです。
確かにわたしたちはすべての人々のいのちを大切にしなければなりませが、自分のすぐ身近にいる人を大切にしないで、どうしてすべてのいのちを大切になど出来るのでしょうか。所詮きれいごとになってしまいます。大きなことを言うなら、自分の目の前にいる身近な人々を大切にしていくことが人間としてあたりまえのことでしょう。そして、そこからしか始まらないのです。そして、そのようなイエスさまの生き方、死に様に触れた人たちに福音が伝わっていきました。華々しいことやめだったことによっては、福音は伝わりません。むしろイエスさまと一人の人が出会っていくところからしか始まらなかったのです。まさにイエスさまが十字架に架けられておられてとき、隣の盗賊に声をかけられたように。
イエスのこの姿こそ、イエスの栄光です。最もイエスさまがイエスさまらしい姿です。そして隣で声をかけてもらっている盗賊はわたしに他ならないのです。このイエスさまの心にわたしたちも聞き入るようにしていきたいものです。

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