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教会からのお知らせ

四旬節第3主日の聖書朗読と勧めのことば

2020年03月15日 - サイト管理者

高野教会の信徒の皆様

いかがお過ごしでしょうか。
ミサもありませんので、主日の聖書の個所を読んで、黙想するということが勧められていますが、その一助となればと思い、今週もメールを送信いたします。(送信しましたメールをHPにも掲載いたします)

カトリック東京大司教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。

https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37327/

どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに四旬節をお過ごしくださいませ。

高野教会役員会

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第1朗読 出エジプト記 17章3~7節

(その日)、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節

(皆さん、)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

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福音朗読 ヨハネによる福音 4章5~42節

(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、
また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。
しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はヨハネによる福音で、イエスさまとサマリアの女との出会いの個所が朗読されています。短い朗読と長い朗読がありますが、今日は長い朗読をじっくりと味わってみてください。朗読の指示は4章5節からになっていますが、実はイエスさまとこのサマリアの女との出会いについて味わうために、非常に大切な言葉が4章4節に書かれています。「しかし、サマリアを通らなければならなかった」という箇所です。
 通常、ユダヤ人はサマリア人を見下し、敵対し、差別していましたから、ガリラヤからエルサレムに行くとき、わざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていました。ユダヤ人であるイエスさまも、普通ならサマリアを通らないコースを取られるのが当たりまえでした。しかし、ヨハネ福音書ではあえて、「サマリアを通らなければならなかった」と述べています。どうしてでしょうか。それはこのサマリアの女がどのような人物であったかということと関係していると思われます。サマリアの女は昼頃に井戸に水を汲みに来ます。普通水汲みは熱い時間帯を避けて、涼しい朝夕に行われていました。井戸端会議という言い方があるように、水汲みは地域の人々の交流の場でもあったわけです。彼女があえて昼頃に水を汲みに来るということは、人目を忍んでということがあったことが分かります。
 本文を読み進めていくと、イエスさまは彼女に「あなたは5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と彼女の事情をズバリ言い当てられます。おそらくいろいろな事情があったのでしょうが、彼女はサマリア人の村の中でも特殊な事情を抱えている女として、他の人から見下され、差別されていたのでしょう。ユダヤ人はサマリア人を差別し、サマリア人はこの女を差別するという負の連鎖があったことが見えてきます。
 しかし、イエスさまはこのサマリアの女を差別したり、責めたりなさいません。むしろ、あなたの器から水を飲ませてほしいと懇願なさるのです。その時のこの女性の驚きはいかばかりだったでしょうか。彼女の事情をすべて知りながら、それを批判したり、ダメだと決めつけたり、また律法の教えで裁こうとはされません。むしろ、彼女をもはや渇くことがない真のいのちの水へ、つまりイエスさまご自身との出会いに導こうとされます。「その方はどなたですか」、「それは、あなたと話しているこのわたしである」と言い、ご自分をこの女性にあらわされます。
この一連の出来事を読んでいくときに、イエスさまとの出会いがどのようなものであるかが分かります。彼女が「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」というように、彼女の最も心の深みにある渇き、最も深みにある真実なるものへの渇き、全き愛への渇きを呼び起こし、それを満たす者との出会いへと導いていかれます。彼女の抱えていた事情、罪、否定してしまいたいような人生など、そのような彼女を一切否定せず、愛の洪水で覆ってしまわれます。この女性にこのような悲しみ、痛み、苦しみを負わせてしまった。だから、イエスさまは彼女と出会うためにどうしてもサマリアを通らなければならなかったのです。このひとりのサマリアの女と出会うことがイエスさまの切なる望みだったのです。そして、この女はわたしなのです。
そして、このような愛と出会った人は、もはや今までの自分にとどまっていることはできません。彼女の人生をあらわす水瓶をおいて、人々のところへ、福音宣教へと出ていくのです。そして、この女と出会った人々が今度はイエスと出会い、またその出会いの輪が広がっていく様子が描かれています。今日、わたしとの真の出会いに飢え渇いておられるイエスさまのことを思いめぐらしてみましょう。

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