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教会からのお知らせ

受難の主日の聖書朗読

2020年04月05日 - サイト管理者

高野教会の信徒の皆様

春の日差しを受け、高野教会のお庭の桜は、満開になっています。いかがお過ごしでしょうか。
いよいよ聖週間に入りました。今日は受難の主日、残念ながら、例年のように枝を持って入堂することもできません。
そして、主の過ぎ越しの3日間が近づいてきました。
高野教会ではミサも聖週間の典礼も行われませんが、聖書の個所を読んで、黙想するということが勧められています。
一日も早くこの状況がよくなり、教会に集うことができますように心を合わせて祈ります。

カトリック東京大司教区では、ミサの動画配信が行われています。
聖週間の典礼も配信されます。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。

https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37890/

また、教区からの連絡ですが、4月8日(水)に予定されている「聖香油のミサ」は、今年は信徒は一切参加できません。油は各ブロックごとに、神父様が持ち帰ってくださいます。感染拡大を避けるための措置ですので、よろしくご理解をお願いいたしますとのことです。

どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに聖週間をお過ごしくださいませ。
高野教会役員会

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入城の福音 マタイによる福音 (マタイ21章1~11章)

イエスの一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ50章4~7節)
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。

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第2朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 (フィリピ2章6~11節)
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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受難の朗読 マタイによる主・キリストの受難 (マタイ27章11~54章)
(そのとき、)イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。
それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は枝の主日ともいわれ、イエスさまのエルサレムへの入城を記念します。わたしたちはいつも教会の典礼の定めた方法で、このエルサレムへの入城を記念します。しかし、典礼はあまりにも儀式化してしまっており、このイエスさまのエルサレムへの入城の意味を理解することを難しくしてしまっています。それで、今日は特にこの意味を黙想していきたいと思います。
通常、わたしたちは教会堂の外からそれぞれ枝をもって行列します。ローマでもエルサレムでも、それは華やかな、荘厳な儀式が行われます。それで、わたしたちはその儀式の行列の華やかさに目を奪われ、その意味を見失いがちです。歴史的な事実を見ていきましょう。イエスさまの宣教活動はイエスさまの育ったガリラヤで始まりました。その宣教活動は、最初豊かな成果をもたらしたように見えますが、やがてその活動に陰りが見えてきます。最初、群衆はイエスさまの今まで聞いたことのない新しい教えとその力ある業(奇跡)に引かれて、熱狂的にイエスさまを支持します。しかし、群衆は、結局は自分たちに都合のよい教えや奇跡に引かれているだけにすぎませんでした。群衆がいわゆる現世利益を頼みとしていることに気づいたイエスさまは、宣教活動の方針を変更していかれます。そのとき訪れた宣教の危機が、弟子たちとフィリポ・カイザリアに行かれた時の出来事として描かれています。群衆はイエスさまに失望し、イエスさまのもとを去っていきました。「あなた方も離れていきたいのか」と弟子たちにも問われます。こうして、イエスさまのガリラヤでの宣教は挫折に終わり、イエスさまの周りの残ったのは12人の弟子たちと宣教の旅につき従っていた婦人たちだけになります。そうした状況の中で、イエスさまは当時のユダヤ教の本拠地であるエルサレムへ行くことを決心されるのです。それは、自分が敵対する勢力の真っただ中に突き進んでいくことを意味していました。そこでは、どのような困難が待ち受けているか分かならい、そのような状況の中で、エルサレムを目指し、エルサレムへ入城されるのです。
今日の典礼は、わたしたちが考えているような、綺麗なものではないのです。そのことにわたしたちの意識を向けさせるために、福音は「主の受難」の朗読が行われます。イエスさまを「ホザンナ、ホザンナ(万歳の意味)」と言って、エルサレムに迎え入れた同じ群衆が、数日後には「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶのです。ここに自分の都合でどのようにでも姿勢を変えていく、人間の自己本位な姿を見ることができます。まさに、ここに出てくる群衆はわたしに他ならないのです。わたしたちは自分に都合の良い事柄であれば喜んで受け入れます。しかし、自分の意に沿わない、また都合が悪い事柄であれば受け入れようとはせず、頑なに拒否します。でも、イエスさまはそれをいけないといわれるのではく、それが人間なのだと認め、受け入れておられるのです。誰でも、自分を損なおうとして向かってくる人や事柄を受け入れることができず、拒否することは当たり前のことでしょう。わたしたちは結局のところ自己関心からのがれることができない、そのあわれな自分の姿をエルサレムの群衆の姿の中に見るのです。
イエスさまはわたしたちを非難するのでもなく、ただ見ておられるのです。その清いまなざしでわたしをいつくしみ、あわれんで見ておられる。わたしたちはその自分自身をイエスさまのまなざしのもとに晒さなければならないのではないでしょうか。というか、その己の現実を直視することができる人だけが、イエスさまが何をしようとしておられるのかを知ることができるのかもしれません。今日、わたしたちはイエスさまのいつくしみに触れるように招かれます。そのいつくしみは、愁いを帯びた、悲しみを堪えた暖かい静かな眼差しなのです。

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