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教会からのお知らせ

復活節第3主日の聖書朗読

2020年04月26日 - サイト管理者

高野教会の信徒の皆様

お変わりありませんか。

◇教区時報は、京都司教区のホームページからも見ることができます。
京都司教区ホームページ http://www.kyoto.catholic.jp/

◇毎日のみ言葉がメール配信で届く「日ごとの福音」も、ご紹介します。
読者登録すると、毎日のみ言葉が届きます。
https://www.higotonofukuin.org/spip.php?page=subscribe

◇カトリック東京大司教区をはじめ、いくつかの教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。
https://tokyo.catholic.jp/

どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに復活節をお過ごしくださいませ。
高野教会役員会

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4月26日(日) 復活節第3主日

第1朗読 使徒たちの宣教 (使徒言行録2章14、22~33節
 (五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
 ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
  主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
  だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。
  体も希望のうちに生きるであろう。
  あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
  あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
  あなたは、命に至る道をわたしに示し、
  御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
 『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

第2朗読 使徒ペトロの手紙 (一ペトロの手紙 1章17~21節)
 (愛する皆さん、)あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活からあがなわれたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

福音朗読 ルカによる福音 (ルカ24章13~35節)
 この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音はエマオへと向かう弟子たちと復活されたイエスとの出会いの物語です。これも週の初めの日ですから日曜日の出来事であったことが分かります。弟子たちはエマオという村へ向かって旅をしています。そこでイエスさまに起こった一連の出来事を話し合っています。そこへ復活されたイエスさまご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められました。でも、弟子たちの目は遮られていて、それがイエスさまだとは気づきません。では、この弟子たちはどのようにして、イエスさまがともに歩いておられるとい真実に気づいていったのでしょうか。気づく、これが真の信仰を得るということですが、今日は、そのことを見てみましょう。
 まず、弟子たちはイエスさまの身に起こった出来事について話し合っています。分かち合っていたとも言えるでしょう。その内容はイエスさまの身に起こったことで、今わたしたちが信仰告白していることそのものです。しかし、彼らはそのことを信じていません。問題は別の言い方をすれば、どのように真の信仰を得ることができるかということでしょう。それで、イエスさまは聖書を読んで、それを解き明かされます。そしてまた分かち合いを続けます。この一連の流れこそが、イエスさまがわたしたちとともにおられることに気づかされるプロセスだと言えるでしょう。聖書を読む。そして聖書の解き明かしを聞く。それから聞いたことを分かち合うという3つの要素があることが分かります。そして、泊まるために家に入って、食事の席でイエスさまがパンを裂いたときに、2人の目が開けたと書いてあります。しかし、彼らは「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」と言います。つまり、実はすでにイエスさまがともにおられたことに思いが至るわけです。そして、そのことにある時に気づくということだと思います。
 わたしたちは今、コロナウイルスの感染拡大でミサのために集まることは出来ません。しかし、聖書のみことばを聞き、その解き明かしを勧めのことば(説教)として聞き、それをお互いに分かち合う、この3つの要素が整えば、わたしたちの心は燃やされるのです。復活したイエスさまが、今その場におられることを体験できます。わたしたちは、どうしても一人で聖書を読むと自分本位の読み方になりがちです。だからみ言葉の解き明かしが必要になるのでしょう。でもその解き明かしを聞いたとしても、それでもわたしたちは自分たちの得手に聞くことから自由ではありません。しかし、分かち合うことによって初めて、自分本位の聞き方をしていること気づかされるのです。分かち合いは自分の独断や偏見を主張し合う場ではありません。自分が聞いたことを人と分かち合うことによって、自己本位な聞き方をしていることがないかどうかお互いに確かめあう場であるといえるでしょう。自分で聖書を読んで、解き明かしを聞き、知識として解説書を読むことだけでは自分本位のあり方にとどまってしまい、いつまでたっても真の信仰に至らないということなのです。読んで、聞いて、分かち合って、そのことを繰り返していく。イエスさまがおられることを体験し、そして真の信仰を得、教会が信仰共同体となっていく。そこには、教皇、司教、司祭、信徒の区別もありません。皆が、平座して分かち合い、それぞれが真の信仰に至るために取り組まなければならないのです。一人で読んで、頭で理解して満足しているだけなら、その信仰は誰であっても歪んだものになっていきます。日本の迫害の歴史の中で、宣教師がいなくなって、ミサがなくなっても信仰を保つことができたのは信仰の仲間がいた人たちでした。一人で信仰を守っていた人たちは、やがてその信仰は変質したものになっていきました。
 この信仰の仲間、信仰共同体こそが教会であり、人類一致のしるし、神との出会いの場、根本秘跡なのです(第2バチカン公会議、教会憲章)。今までのカトリック教会は根本秘跡である教会がおこなう7つの諸秘跡に拘り過ぎたのかもしれません。もちろん聖体を頂けることは恵みです。しかし、頂けないこともまた恵みです。だから、今この時にこそ、わたしたちは聖書を読み、その解き明かしを聞き、それを分かち合う信仰共同体になっていけるかどうかが問われてくるのです。現代はいろいろな方法があります。実際的に集まることができなくても電話やメール、ラインなどで分かち合うことは充分可能です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と言われたこと、これが教会、信仰共同体です。わたしたちが真の信仰共同体になれるかどうか、そこにイエスがともにおられることに気づくことができるかどうかが問われています。
 あるときお寺の掲示板に次のような言葉が書かれていました。「本当のいちばん深い闇は、分かっているという思いです」。なるほど、一番深い闇はコロナでも、病気でも、死でもなく、自分こそは分かっているという思いなのです。この困難な時は、わたしたちに染み付いた今までの思い込みや既成概念から解放され、真の教会共同体になるチャンスなのかもしれません。そのことを今日は味わってみましょう。

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