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教会からのお知らせ

復活節第6主日の聖書朗読と勧めのことば

2020年05月17日 - サイト管理者

信徒の皆様へ

♰主の平和

お変わりありませんか。
17日は、第54回「世界広報の日」です。
「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト10・2)人生は物語となる教皇メッセージ
は、カトリック中央協議会のサイトで読むことができます。
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/30/20698/

一日も早く教会に集える日が来ますように、マリアさまの取次ぎを祈りつつ。
どうぞご自愛ください。

高野教会役員会

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5月17日(日) 復活節第6主日

第1朗読 使徒たちの宣教 (使徒言行録 8章5~8、14~17節)
(そのころ、)フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

第2朗読 使徒ペトロの手紙 (ペトロの手紙13章15~18節) 
(愛する皆さん、)心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ14章15~21節)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音の個所は、イエスさまが最後の晩餐の席で、弟子たちに真理の霊である聖霊を送る約束をされる箇所です。その目的は、聖霊を送って、弟子たちと永遠に一緒にいるようにするためであるということが書かれています。わたしたちは、実際のところ、聖霊が何のことなのかよく分かりません。いくら、神学的に説明されてもピンとこないというのが本音でしょう。唯、今日の聖書の個所から読み解くと、聖霊を遣わす理由は、わたしたちと永遠に一緒にいたいというイエスさまの願いによるものであることが分かります。
聖霊は、聖書のなかでは、風とか息、呼吸に例えられていますから、そのものを生かしている「いのちの働き」であると言ってもいいかもしれません。そうすると、イエスさまの人類に対する働きかけは何かというと、それは、わたしたちと共にいたいという「願い」であると言ってもいいでしょう。聖霊を送るということは、それこそイエスさまのわたしへの悲願を実現することに他ならないのかもしれません。この霊がわたしたちと共におり、わたしたちの内にいる。だから、決して、わたしたちはみなしご、一人ぼっちではない。そう考えると、イエスさまの「願い」というものが、聖霊であると言ってもいかもしれません。しかも、わたしたちが望んだのではありません。イエスさまが先に、一緒にいたいと望まれたのです。だから、わたしたちはイエスさまから願いをかけられた身であるということです。
マタイ福音書の最後の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)」という言葉は、イエスさまの最期のお約束です。イエスさまが願われたことは、イエスさまがすべての人と共にある世界です。つまりイエスさまは、わたしと一緒におられる世界、けれど、わたしの憎たらしい嫌いなあの人とも一緒におられる一切平等の世界を願われました。それが神の国でしょう。イエスさまが約束されたことは、必ず実現します。イエスさまは、神のみことばですから、仰ったことは全て真実で、その言葉通りになります。だから、イエスさまが「共にいる」と言われたのですから、それは必ず実現し、今既に実現していっているのです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:21)」。唯、わたしたちの目にはそのように見えないかもしれません。
わたしたちは自分たちの願いがかなえられることで、救われて、幸せになれると思っています。有名になりたい、お金が欲しい、健康で家族円満で等々です。しかし、わたしたちが本当に願っていることは何でしょうか。自分の願い、あえて言うなら自分の都合が通る世界でしょうか。世界平和だとかなんとか言っても、結局、自分の都合のよい世界を望んでいるというのが正直なところではないでしょうか。わたしたちは、やはり、自分の成功、健康、長寿、息災を第一に願いますし、先ず家族のことを願うでしょう。それは、人間である限り、当たり前のことなのです。世界の平和を願うと言っても、自分の幸せという視野から一歩も出られないわたしがそこにはいます。
でもイエスさまは、そのようなわたしたち人間を誰一人として、一切差別しないで、先ずイエスさまが、わたしたちと一緒にいたいと願ってくださいました。決して、わたしたちをみなしごにはしないと言われました。その願いが-それが聖霊でしょうか-イエスさまを通して、わたしたちのところへ届いているのです。そして、わたしたちが自分の力ではどうしても超えることができなかった、「わたしが、わたしが」、「俺が、俺が」の世界から、はるかに広い、深い世界へとわたしたちを招き入れてくださったのです。聖霊を遣わすということで、わたしの内にイエスさまの願いが注がれ、イエスさまの願いとわたしの願いがひとつになっていくのです。これこそ、イエスさまが「神の国が近づいた」と言って宣教を始められたことが実現していくことなのだと思います。パウロが「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません(ガラテア3:28)」と言われた世界、国境も、身分も、性別も、宗教も超えた世界です。そのことに目覚めさせて頂いた仲間たちが教会です。改めて、わたしたち教会の使命、役割というものを少し考えてみましょう。

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