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教会からのお知らせ

年間第12主日の聖書朗読と勧めのことば

2020年06月21日 - サイト管理者

信徒の皆様へ

♰主の平和

お変わりございませんか。紫陽花が美しく咲いています。

ようやく京都教区内で、少しずつ公開ミサが再開されています。高野教会のミサについての詳しいお知らせは、月曜日以降にご登録の方法でお送りいたしますので、もうしばらくお待ちください。

また、教区全体で、所属教会以外のミサにあずかることは避けていただきたいということですので、高野教会所属の信徒の方は、高野教会以外のミサに行かれることがないようにお願いいたします。同じく、高野教会のミサに、他教会の信徒の方はあずかることができません。
祈りのうちに。

高野教会役員会

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第1朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ 20章10~13節)

(エレミヤは言った。)わたしには聞こえています
多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。

しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。

万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。
わたしに見させてください
あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け
お任せします。

主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章12~15節)

(皆さん、)このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

福音朗読 マタイによる福音 (マタイ10章26~33節)

(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。
耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。
あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は一見すると理解が難しい箇所です。時代背景としては、マタイの教会の直面していた困難が背景にあるようですが、「恐れるな」という言葉が何度となく繰り返されます。ということは、マタイの共同体の人々の中に何らかの恐れや不安が広まっていたということでしょう。

マタイの福音書の書かれた背景を見ると、ローマ帝国によるエルサレムの都の攻撃、陥落後、ユダヤ教の一グループであったキリスト者たちは、ユダヤ教から排除されるようになり、ローマ帝国の中へ、宣教へと打って出なければならない、そのような状況であったことが分かっています。そこには、ユダヤ教に厳しく反発しつつも、ユダヤ教色を色濃く残しながら、ローマ帝国の中に入っていかなければならないという、不安定な状況に置かれていた人々の動揺が伝わってきます。そのような状況の中で、共同体は、様々な不安や恐れに取りつかれていたのでしょう。そのような中で、イエスさまは「恐れるな」と言われています。しかし、この文章の中からは、厳しさしか伝わってきません。

マタイ福音書のテーマは、冒頭に出てくる、インマヌエル「神はわれらとともにおられる」(1:23)、そして最後に出てくる、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(28:20)です。つまり、イエスさまはどのような状況においても、わたしたちとともにおられるということが、一貫したメッセージとなっています。わたしたちは様々なものを恐れます。病気、天災、災害、老い、死から始まって、人間関係や社会や家庭生活の中で起こる出来事などなど。恐れることに事欠かないぐらいの、不安や心配に取りつかれています。そのような状況の中で、わたしたちを恐れから解放してくれるものは何でしょうか。よい薬や治療方、法律や行政、頼りになる先輩や友人、家族などなどでしょうか。でもそれにも限界があります。人間の力だけではどうしても解決できないことがあります。また、苦しんでいる人と自分が代わってあげることも出来ません。人間は、自分の力だけではどうすることも出来ない存在であるということでしょう。

ヨハネの手紙に次のような箇所があります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:18,19)」。どのように困難な時でも、自分を抱きしめ、愛してくれる誰がいれば、たとえ問題は解決しなくても、わたしたちは安心していられます。わたしたちが何かを恐れるのは、自分がひとりぼっちだと感じ、世界からも人からも見捨てられ、自分は罰せられていると感じるからかもしれません。わたしたち皆は弱いので、不安になったり、心配になったりする。事がうまくいかない、失敗にしか思えないことも現実が起こってくる。全てから否定されたように感じる。自分の力ではどうすることも出来ないことが起こってくる。そのことを全て分かったうえで、イエスさまはわたしたちのところへ来られました。しかも、イエスさまは、わたしたちを注意したり、罰したりするためではなく、わたしたちとともにいるために来られました。一見、何にもしてくださっていないように感じるかもしれません。助けてくださっているように思えないかもしれません。唯、わたしの横で手を取ってともに泣いてくださっているだけかもしれません。しかし、それでも、イエスさまはわたしとともにいたいと望まれました。しかも、わたしが望んだのではなくて、イエスさまがわたしとともにいたいと望まれました。今日の福音はそのことが前提にあるのだと思います。だから、恐れることはないと。なぜなら、イエスさまはわたしたちのいのちの主でおられるのですからと。

そして、今、わたしたちキリスト者に、イエスさまの働きが委ねられているように思います。決して大きなことをすることではありません。わたしの身近にいる人たちの支えになること、ともにいること。また、わたしたちも誰かに支えてもらうこと、ともにいてもらうこと。そのような世界をイエスさまは望んでおられたのでしょう。わたしたちがイエスさまと出会い、知ったのはそのためではないでしょうか。

「恐れないで、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神である(イザヤ40:10)」
以下の聖歌を聞いてみてください。わたしも病の時に慰められ、支えになったみことばです。そして、改めて今日の福音をもう一度味わってみましょう。印象が変わってくるかもしれません。

https://www.youtube.com/watch?v=QhrolNbAXQo/

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