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教会からのお知らせ

年間第15主日の福音と勧めのことば

2020年07月12日 - サイト管理者

信徒の皆様へ

♰主の平和

豪雨の被害の映像に胸が痛みます。被災地の方々のため、心を合わせて祈ります。

高野教会役員会

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ13章1~9節)

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、 イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音は種まきのたとえと言われる箇所が朗読されます。このたとえを読むと、わたしたちは直ぐに、さあ~自分はどんな土地であろうかと想像します。道端だろうか、石だらけの土地だろうか、茨だらけか、良い土地であろうかと。しかし、わたしたちはどんな土地であるか、石だらけか、茨だらけか、それが大切なことではありません。既に、みことばの種は蒔かれていること、そのことが大切なのです。だから、「耳のあるものは聞きなさい」と言われるのです。確かに、実が結ぶかどうかは、わたしたち次第かもしれません。しかしながら、先ず、みことばの種が既に蒔かれていることに気づき、そのみことばに聞かなければ、実が結ぶということもないということです。では、先ず、そのことにどのようにして気づいていけるのでしょうか。それが、「聞く」ということです。

 聞くきっかけは、何でもいいのです。唯、わたしたち夫々が自分と向き合って、自分の人生に不条理を感じ、そこから何とかして救われたいという、強い望みがきっけとなっていくのではないでしょうか。それがなければ、宗教そのものが成立しません。自分で自分のことや他人のことを、何とでもできると思っている人に、宗教は必要ありません。今は、テレビも、スマホもあり、全ての情報を瞬時に手に入り、気を紛らわせてくれるものが幾らでもあります。そして、お金があれば、それをいとも簡単に手に入れることができます。だから、人々は自分から目をそらし、自分を見つめようとはしません。宗教など必要ではないのです。しかし、今、コロナの時代になって、人間は何十年、何百年ぶりかで、人間の力では、また既成のカトリック教会ではどうにもならない現状を体験しています。今、教会制度が何の役に立ちますか。位階制度が何の役に立ちますか。綺麗な聖堂や祭器具が何の役に立ちますか。このコロナ感染の前には、全くと言っていい程、それらのものは無力です。それでも、自分の心と向かい合う機会を避けて、聖体拝領にしがみつく人がたくさんいます。ミサを否定しているのではありません。信仰共同体あってのミサで、拝領だけを目的にしているなら何の意味がありますか。

 イエスさまは「耳のあるものは聞きなさい」と言われました。このような状況になって、はじめてわたしたちは、イエスさまのみことばに耳を傾けようとするのかもしれません。しかし、イエスさまの時代でも、人々がイエスさまに求めたのは自分の問題を解決してくれる、都合のよい救い主にすぎませんでした。今でもさほど状況は、変わっていないように思います。だから、いつまでたっても、聖書は難しい、分かち合いは嫌いだ、イエスさまのことが分からないと皆は言います。自分の都合に合わせて、イエスさまに聞こうとしている限り、分からないのは当然です。なぜなら、わたしたちの悩みに根っこにあるものは、あらゆるものを利用して自分の幸せを求めている、そのわたし自身の心のあり方が問題だからです。わたしたちが、イエスさまに聞いて教えられることは、先ず、そのような自分の正体が知らされるということではないでしょうか。今までのわたしたちは毎週教会に通っていますと言って、自分の真の姿を知らないままに、とんでもない生き方をしていることが、先ず、知らされてくるのです。

 イエスさまのみことばを聞くときに、そのわたしたちの頑なな心が砕かれていきます。わたしの思い、出発点が、いかに間違っていたかに気づかされていくときに、もはやわたしの思いを出発点とするのではなく、イエスさまを出発点とする真の信仰生活が始まるのです。イエスさまのみことばを聞くために準備も資格もいりません。なぜなら、既にイエスさまのみことばはわたしたちのうちに蒔かれているのですからです。茨のような、石だらけのような荒れ果てた土地でいいではありませんか。そのわたしの荒れた生活が、イエスさまのみことばを聞く場となっていくのです。

 しかし、聞いただけでは充分ではありません。なぜなら、わたしたちは、自分に都合よく聞くことから決して自由ではありません。だから、分かち合いが大切となってくるのです。分かち合いが苦手だとか、慣れていないということはあるでしょう。しかし、分かち合わなければ、自分に都合よく聞いた考え方やあり方を、唯、自分に都合よく補強するだけで終わってしまいます。分かち合うことで、自分勝手な見方や考え方が正されていくのです。一生懸命、教会に来て、ロザリオをして、奉仕やボランティアもする。しかし、自己中心的で、独断的で、偏見に満ちた人が多いのはどうしてでしょうか。得手に聞いてきたからではないでしょうか。わたしたちは、決して自分勝手な見方によって、イエスさまのみことばを乱すことがあってならないのです。イエスさまの前には、教皇も司教もありません。皆、同じキリスト者として分かち合っていく、そこにコロナ後の真の信仰共同体の姿があるのではないでしょうか。

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