年間第19主日の福音と勧めのことば
2020年08月09日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
残暑お見舞い申し上げます。
厳しい暑さが続いていますが、お変わりございませんか。
今日は年間第19主日です。
福音と勧めのことばをお送りします。
洛北ブロック司祭団のミサの配信は、司式は北村神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
感染症にも熱中症にもくれぐれもお気をつけください。
祈りのうちに繋がりつつ。
高野教会役員会
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福音朗読 マタイによる福音書 (マタイ14章22~33節)
(人々がパンを食べて満足した後、)イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、 向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、 逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の個所は、マタイの教会の抱えていた状況を色濃く反映した箇所であると言えるでしょう。紀元70年に、エルサレムの都がローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ教は律法主義を中心としたファリサイ派が主流を占めるようになります。同時に、キリスト教はユダヤ教から完全に排除され、異邦人世界へと宣教の目を向けていかなければならなくなります。しかしながら、マタイの教会は、ユダヤ教の伝統を色濃く残していますので、律法主義への誘惑が常にあったのでしょう。律法主義の根本的な問題は、律法の遵守によって神から義とされるという自力作善の信仰理解にありました。簡単に言えば、人間は、自分の力で神に至ることができる、救われるというものです。しかし、人間の力で救いに至ることができるのなら、イエスさまも、信仰も不要となってしまいます。そのような、状況にあったマタイの教会の人々に、イエスさまとは一体だれか、人間とは一体何かということを問うというのが、マタイ福音書のひとつのテーマとなっています。
この問題は、実は、最も現代的な問題であるとも言えます。近代以降、人間はこの世界の支配者として君臨し、人間の力ですべてを解決でき、自分の力で幸せになることができると信じて、突き進んできました。それは、神抜きの世界を築いてきたということに他なりません。しかし、現実はどうでしょうか。人間中心主義によって推し進められてきた結果、社会の中に様々なひずみ、問題を生み出してきました。実は、現代の日本のカトリック教会の一番大きな問題は、キリスト教であると言いながら、イエスさま抜きで、人間の力ですべてを何とかしようとしていることです。イエスさまの名前を使っていますが、本気で、イエスさまを必要としていない。まさに、マタイの教会が直面していた律法主義、人間の力で何とかなる、人間の力で何とかしようとしていることとなのです。人間の力ですべてができるという奢り、そして、そのような自分たちの前提を疑ってみることもないという、深い深い人間の闇に対する無自覚ということこそが問題なのです。そのような、現状を押さえて、今日の福音をもう一度読んでみたいと思います。
イエスさまは、このような生き方をしてしまっている弟子たちを-これは実はわたしたちのことなのですが-、「強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせ」ようとされます。その舟の中には、イエスさまはいらっしゃいません。弟子たちの何人かは漁師で、ガリラヤ湖は自分たちの仕事場です。経験もある、ノウハウもある、自信があるわけです。だから、イエスさまがいないことに不安も感じていなかったでしょう。しかし、突然、嵐に巻き込まれ逆風に悩まされて、自分たちの経験も何も役に立たない状況に追い込まれます。海、湖は人間のコントロールの効かないものの象徴です。これは、今まさに、わたしたちが体験している状況であると言ってもいいでしょう。コロナという感染症の前には、人間の力は全く無力であることを体験させられています。現代の社会は、人間の力を絶対視して歩んできました。それが現代の大きな潮流となっています。その中で、真の人間性を回復することが、実は宗教の役割なのですが、宗教の中にまで、その人間中心主義が入ってきています。カトリック教会でも例外ではありません。自分たちの信念という信仰があれば、ペトロのように水の上さえも歩けるという奢りに陥っています。自分たちは伝統も、経験も、知識もある。この分かったつもりになる、ということが一番恐ろしいことなのです。自分たちの力で分かったつもりになる。このことが自分自身の真の姿を見えなくし、人間の愚かさに気が付かなくさせてしまっています。人間の偽善とか無明と言われることです。
その現実に気づかせるために、イエスさまは弟子たちに近づかれます。しかし、弟子はそれがイエスさまであることさえ分からないほど、自分に囚われて混乱しています。その弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ」と言われます。「わたしだ」と言われた言葉は、神さまがモーゼに現れたときに、告げられた名前です。新しい聖書協会訳では「わたしはいる、というものだ(出エ2:14)」と訳されています。「恐れるな。わたしがあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが水の中を渡るときも、わたしはあなたとともにおり、川の中でも、川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない…恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43:1~5)」と、イザヤ書で言われている方が今、目の前におられ、そのみことばが実現している。イエスさまと出会っていくことを通して、愚かな、分かったつもりになっている自分が破られていく。そして、イエスさまが舟に乗りこまれると嵐は静まっていきます。こうして、弟子たちは、浅ましい人間の知識より解放されて、自力で苦海を渡ろうとしていた愚かさに気づかされ、イエスさまの救いの舟に身を委ね、はじめて真の信仰へと突破口が開かれていくのです。「本当に、あなたは神の子です」と。その後も、弟子たちの愚かさは変わりません。しかし、その愚かさに気づかされていく中で、「あなたとともにいる」と言われたイエスさまの言葉が、生活の中で様々な苦しみを抱えている己の身に響いてくるようになるのです。