年間第20主日の福音と勧めのことば
2020年08月16日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
酷暑の毎日、お変わりございませんか。
昨日は、「聖母の被昇天」の祭日でした。
例年ならミサのあとに「生きたロザリオ」をして皆で祈るのですが、今年はミサもなく、さびしい被昇天祭となりました。
終戦から75年、平和のために心を合わせて祈りつつ。
洛北ブロック司祭団のミサの配信は、司式はウイリアム神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
感染症にも熱中症にもくれぐれもお気をつけください。
祈りのうちに繋がりつつ。
高野教会役員会
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福音朗読 マタイによる福音書 (マタイ15章21~28節)
(そのとき、)イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。 しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 そのとき、娘の病気はいやされた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所は、マタイ福音書において、重要と言われている箇所です。ある聖書学者たちは、イエスさまの回心の箇所であるという言い方さえしています。というのは、マタイ福音書の書かれた背景は、紀元70年に、エルサレムの都がローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ教は律法主義を中心としたファリサイ派が主流を占めるようになった時代です。また、それまでユダヤ教の一派とみなされていたキリスト教が、完全にユダヤ教から排斥され、ユダヤ教の会堂への出入りが禁止されます。そのような状況で、異邦人への宣教へと舵を切っていかざるを得なくなるなかで、マタイの教会の動揺が感じられる箇所です。
わたしたちは今でこそ、イエスさまが全人類の救い主であることを知っています。しかし、当時のキリスト者たちのほとんどが、ユダヤ教からの改宗者でした。ですから、彼らは、イエスさまをユダヤ人の救い主(メシア)だと考えていました。既に教会の中で、異邦人への宣教ということが始まっていて、イエスさまがすべての人の救い主であると気づいていても、そのことを受け入れることは、なかなか簡単なことではなかったようです。弟子たちは、先ずは、自分らユダヤ人を第1にと考えたことは当然でしょう。
ここで出てくるカナンの女は、ユダヤ人から見れば外国人です。ここで見られるイエスさまのカナンの女に対する、一見すると非常にそっけない、冷酷とも思える反応、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とか、「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」というマタイ特有の外国人を見下した言い方は、イエスさまに由来しているものではなく、マタイの教会の当時の状況と関係していると言えるでしょう。最初に書かれたマルコの福音書にも同じ箇所がありますが、マタイの言い方ほど露骨ではありません(マルコ7:24~)。
人間は、自分の思いや考え方に拘る自己中心性という、人間である限りどうすることもできない業を抱えています。イエスさまが人間でありながら、わたしたちと違っていたことは、この自分への拘りがなかったということです。イエスさまにとっては、ユダヤ人であろうと、カナン人であろうと、目の前にいる人が一番大切でした。のちにパウロは、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテア3:28)」と言っています。しかし、マタイの教会のユダヤ人キリスト者たちは、自分たちをモーセに由来する律法の真の継承者であることに拘り続けました。なぜ異邦人に宣教していかなければならないのかという、ある意味、屈辱にも思える現実をなかなか受け入れることができませんでした。
人間の理性は、物事を分けて考えようとします。わたしたちは、分けることで物事が分かる、理解できると思い込んでいます。律法は、まさにこの分別の世界でした。ユダヤ人たちは律法や掟を守ることで、守っていない人や異邦人に対して優位に立つことで自らのアイデンティティを保つ、そのような宗教性を生きていました。それは、ユダヤ教だけでなくても、人間であれば誰でも大なり小なりそうですし、カトリック教会であってもそうでしょう。自分は○○だという立場でしか、自分のことを保てない人たちがたくさんいます。しかし、この分別こそ、人間の苦しみの原因であり、格差、差別や貧困、戦争などの様々な問題を生み出してきました。イエスさまの眼差しは、この人間の愚かな分別を超えたものでした。ユダヤ人であるとか異邦人であるとか、男であるとか女であるとか、信徒であるとか司祭であるとか、聖人であるとか罪人であるとか、そのようなことを超えた眼差しで、わたしたちを見ておられます。これは、仏教では「無分別知」といわれ、区別、差異を超えた世界、真の知恵であると言われてきました。それに対して、人間のもつ「分別知」は人間の愚かな判断、知識のことです。カトリック教会は、実はこの分別が大好きです。しかし、それこそ、実はイエスさまのもっとも嫌われた偽善という罪に他なりません。カナンの女に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言わなければならなかったのは、イエスさまではなく、異邦人を見下していたユダヤ人キリスト者たちだったのでしょう。自分たちより、素直にイエスさまを受け入れていく人たちを前にして、頭を下げるしかなかったのでしょう。
福音宣教とは何でしようか。イエスさまを知らない人に、教会の教えや屁理屈のようなカテキズムを上から教えることでしょうか。確かに、昔の教会はそうでした。しかし、教会の教えで人は救われません。福音宣教とは、イエスさまとの真の出会いよって、分別知に囚われているわたしたちの価値観が相対化され、転覆させられることです。カナンの女が自分の抱えている現実の生活の中で、イエスさまと出会っていったように、わたしたちも自分の生きている生活の場で、イエスさまと出会うこと、それだけがわたしたちを救い、自由にしてくれます。そのようなイエスさまとの出会いを、同じ土俵に立った者として、お互いに分かち合っていくこと、そこに教会の真の福音宣教のあり方があると思います。そして、そこに神の国の始まりがあります。わたしたちも、改めて、そこから新しく始めてみませんか。