年間第23主日の福音と勧めのことば
2020年09月06日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
9月に入りました。お変わりなくお過ごしでしょうか。
非常に強い勢力の台風が近づいているようです。大きな被害がないことを祈るばかりです。
洛北ブロック司祭団の年間第23主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はウイリアム神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
日本の司教団は、教皇フランシスコの訪日にこたえて、毎年9月1日~10月4日を「すべてのいのちを守るための月間」と定め、今年から実施されます。
詳しいことは、カトリック中央協議会のHPに書かれていますのでお読みください。
すべてのいのちを守るための月間
また、具体的な取り組みの1つとして「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を唱えるように勧められています。
すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り
まだまだ感染症にも熱中症にもくれぐれもご自愛ください。
祈りのうちに繋がりつつ。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ18章15~20節)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまに由来するものではなく、マタイ固有の箇所であり、マタイの教会の問題が取り上げられている箇所であるといわれています。イエスさまが宣べ伝え、人々の間にもたらそうとしたのは神の国であり、教会を創設することではなかったということは、現代の聖書学では定説となっています。歴史の流れの中で、キリスト教がユダヤ教から完全に分離し、自らのグループを形成していく状況の中で、「教会」という言葉が使われるようになっていきます。4つの福音書の中で「教会」という言葉が使われているのは、マタイだけで、しかも2箇所だけです。教会という言葉は、元々ギリシャ語のエクレジア、「人々の集まり」という意味で、組織や制度、建物を指す言葉ではなく、イエスさまを救い主として信じた人々の集いを現わす言葉でした。イエスさまが目指したのは、あくまでも神の国を人々の間にもたらすことで、イエスさまが教会という言葉を使ったということはありません。では、教会とは何でしょうか。言うなれば、教会は、イエスさまの神の国が完成するときまで、神の国が実現するように世界の中で、働き、奉仕し、証しするのが教会の役割だと言えます。主の祈りで「み国が来ますように」と祈っていますが、神の国が完成されたとき、教会はその役割を終えます。ですから、教会が目的となったり、絶対的なものになることはないということです。キリスト教の洗礼を受けた人たちだけが、神の国のメンバーであるということはありませんし、洗礼を受けたとしても、イエスさまを本当の意味で知らない人たちもいます。その反対に洗礼を受けていなくても、イエスさまのことを知っている人たちもいます。ですから、神の国は、教会よりも、洗礼や秘跡よりも、広いと言ったらいいでしょう。
それでは、そのような前提の上で、わたしたちは教会として、現代社会の中で何を証ししていったらいいのでしょうか。それが、今日のマタイのメッセージだと思います。今日の箇所で大切なのは、ゆるしと教会共同体のあり方ということだと思います。ゆるしについては、来週に語られますので、その場にお話を譲りたいと思います。今日は、教会共同体をどのように捉えていくかということをお話ししたいと思います。今日の箇所で、教会に関する大切な箇所は、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(18:19~20)」というところです。
ここでマタイは、イエスさまの名によって二人以上が集まることが、教会であると言っています。そしてその集いの中に、イエスさまが確かに現存しておられます。これは、マタイの中心テーマで、イエスさまが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(28:20)」といわれた約束の実現と見ることができます。復活されたイエスさまが、ともにいてくださるということを知り、それを体験した人と人とが集い、そのことを互いに喜び、分かち合うこと、それが教会共同体なのだということです。教会は組織でもなく、建物でもなく、イエスさまを中心とした人と人との集いであることが分かります。事実、初代教会には、教会堂もなく、司教・司祭・助祭・信徒の区別もなく、「毎日ひたすら心を一つにして…家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって…(使徒言行録2:46)」集まっていたと書かれています。そして、その生き方ゆえに、皆から好意をもたれた(同2:47)と書かれ、イエスさまを中心とした輪が広がっていった姿が描かれます。そこでは、イエスさまの価値観、つまり神の国の価値観が大切にされていますから、そこに神の国の確かな芽生えがありました。これこそが教会の役割であると言えるでしょう。わたしたちが躍起になって維持しようとしている、現在のカトリック教会の制度が整っていくのは、キリスト教がローマ帝国から公認された3~4世紀以降です。カトリック教会という組織や建物などは、相対的なものにすぎません。
芭蕉のことばに不易流行というのがあります。いつの時代も変わらない本質的なものと、時代や人々の要求に合わせて変わっていくものがあるということを言った言葉です。教会の不易、つまり本質にあたるものが「イエスに名によって二人以上が集まる」ということでしょう。それ以外のものは、時代と場所によって変わっていくものです。カトリック教会は、流行を不易と同一視した時代が長く続きました。しかし、イエスさまに直接由来しない教会の制度や決め事は、変わっていくというか、変わっていかなければ、時代の中で取り残されてしまいます。伝承は、受け取る相手があって初めて成り立つものです。いくら素晴らしい伝統であっても、受け取る人がいなかったり、受け手の魂の渇きに、真に応えていないのであれば、伝承は途切れてしまいます。大切にしなければならないのは、イエスさまの視点であり、組織の視点、道徳ではありません。目の前に生きているひとりの人間を、兄弟姉妹として大切にしているかどうかということだと思います。
親鸞聖人の晩年のことばに、「一人居て喜ばば、二人と思ふべし。二人居て喜ばば、三人と思ふべし。その一人は 親鸞なり」というのがあります。わたしたちが本当にイエスさまと出会い、その出会いを同朋として喜んでいるかどうかが、今、わたしたちひとり一人に問われているように思います。その喜びを分かち合っていく共同体が教会なのだということを、今一度、心に刻み、わたしたちがどのような形で教会となっていくことができるのかを、模索していきたいと思います。