年間第24主日の福音と勧めのことば
2020年09月13日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
ようやく秋の風が吹きはじめました。
夜になると虫の声が耳に心地よく聞こえてきます。
お変わりなくお過ごしでしょうか。
明日、年間第24主日の福音と勧めのことばをお送りします。
洛北ブロック司祭団の年間第24主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はユン神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
日本の司教団は、教皇フランシスコの訪日にこたえて、毎年9月1日~10月4日を「すべてのいのちを守るための月間」と定め、今年から実施されています。
詳しいことは、カトリック中央協議会のHPに書かれていますのでお読みください。
すべてのいのちを守るための月間
また、具体的な取り組みの1つとして「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を唱えるように勧められています。
すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り
夏の疲れの出る時期です。ご自愛ください。
祈りのうちに繋がりつつ。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ18章21~35節)
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 ユン・サン・ホ
マタイ福音で、教会は、神の国を可視的に表している兄弟的共同体を示しています。
‘兄弟愛‘とは、共同体構成員の一人一人の相互責任に基づいて絶えず助け合う、ゆるしと和解の場です。私達は今日もごミサの中で、神の小羊が捧げられ私たちの為に死んでくださったこと、つまり神様が捧げられることで全ての罪をゆるしてもらう体験をすることになります。
ユダヤ教では、罪をゆるされるためには、それに見合うふさわしい賠償をしなければなりませんでした。軽い罪なら鳩一羽を祭壇に捧げるだけでいいのだけれど、重い罪なら牛一頭になる。相手が神様だったら、この世のものでは償えないので、宇宙を捧げたらところでゆるされはしません。
今日、福音の主君が家来の借金を全部帳消しにしました。しかし、それは、単純にお金の問題ではなく、同等な兄弟的な関係として受け入れるという意味です。同じマタイの福音書には「小さいものの一人にしたのは私にした」とあります。
愛とゆるしだけが、私たちが結んでいる全ての人間関係を新しくすることが出来るのです。人々の間、全ての関係の中で絶対的な規範は愛とゆるしです。
ゆるすことは感情的なことではなく、一つの姿勢と行動の実践です。真のゆるしは神の恵みから生まれます。
今日の福音のように、私たちはゆるしを要求するのは早いですが、ゆるしを与えるのは難しいです。自分に対しては寛大、相手には厳し過ぎる姿勢と行動です。考えられない沢山の負債を全部帳消しされたにもかかわらず、仲間に対して憐れみはなかったのです。一万タラントンゆるしてもらった人が、100デナリをゆるさなかったとき、七の七十倍のゆるしがなくなってしまいました。
今日の福音を通して、イエスは私たちを相手の立場に立つことを促します。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか、と。
神様のゆるしの条件は「あなたも出かけていって、神がされたことと同じことをしなさい」というものです。ゆるされて、愛されたことを忘れないように。また、神の前に立った自分自身のことを考えるように教えます。立場を逆に立って見ると、全てが違って見えます。神や人からゆるされない人は、自分でゆるされることを断っている人のことなのでしょう。
「ゆるす」ということは、「人間が新たに始めることが出来る存在であると信じること」です。ゆるしとは、生活が平安になるための「停戦」ではありません真実のゆるしとは、神が私たちにおいてなさる「新たな創造」なのです。