年間第25主日の福音と勧めのことば
2020年09月20日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
お変わりなくお過ごしでしょうか。
明日「年間第25主日」の福音と勧めのことばをお送りします。
洛北ブロック司祭団の年間第25主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はウイリアム神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
朝晩と日中の気温差が大きい毎日です。
体調を崩したりなさいませんよう、どうぞご自愛ください。
祈りのうちに繋がりつつ。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ20章1~16節)
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日読まれた福音は、神の国についてのぶどう園の労働者のたとえ話です。この箇所は、マタイ固有の箇所であり、おそらく「このように、あとにいるものが先になり、先にいるものが後になる(20:16)」が結論になっていますので、アブラハムを通して約束を受けたユダヤ人が後になり、イエスさまの福音の受け入れた異邦人が先になるということを言おうとしたのだと思われます。しかし、朝から働いたものも、夕方5時から働いたものも同じ賃金をもらうという点をみると、どちらが前で、どちらが後かということを問題にしているのではないようにも思えます。それでは、このたとえ話が言いたいことは何なのでしょうか。
そのヒントは、朝から働いた労働者のことばの中にあると思います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。(20:12)」。わたしたちは、彼らの言い分は当然だと思いますし、これが社会の中で行われれば、労働争議になるような問題です。でも、イエスさまはこのたとえを話すことで、われわれ人間の視点とは全く違った、神の視点を伝えようとしておられるのだと思います。
現代社会は、まさに暑い中を辛抱して「頑張るものが報われる社会」を目指して、どんどん進んできました。しかし、頑張れない人はどうすればいいのでしょう。頑張りたくても頑張れない人もいるし、元々頑張れない人もいます。個人的なことになりますが、わたしはこの「頑張る」ということばは好きではありません。わたしは小さいときから、元気に育ってくれたらそれだけでいいぐらいの感じで、「頑張れ、頑張れ」と両親から言われることもなく、割かしのほほんと育ちました。しかし、わたしが青春期にカトリック教会に入信し、ほぼ同時に司祭職への召命を頂いたころから、わたしは頑張ることはよいことだというような価値観に染まっていきました。おそらく、キリスト教の雰囲気や影響も、わたしがまだ若かったということもあるのでしょう。だから、神学校生活の6年間、司祭叙階後25年、頑張ることはよいことだと信じやってきました。しかし、その先に待っていたものは、母の死と自分の病気でした。それで、しばらく静養しなければならなくなり、今もその病を抱えていますが、病気のひどいときは、何もできず、ミサをすることも、祈ることも出来ず、ただ寝ていることしかできませんでした。しんどくて、イエスさまの「イ」も出てこない生活が続きました。わたしは、全く頑張れない人間になってしまいました。それでも何とか息をして、一日が終わってゆく。そのような病の中で、たとえわたしが、何が出来ても出来なくても、良くても悪くても、そんなことに関係なく、イエスさまはわたしを愛しておられるのだということに少しずつ気づかされていきました。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ(14)」という温かいイエスさまの言葉が、改めてわたしの心に響いてきました。実に、イエスさまの真の愛と出会うためには、長い時間が必要でした。イエスさまのことを、頭では神学的には理解しているつもりでしたが、やはりわたしの中では、自分が頑張ることはいいことで、そのことは当然のことなのだという思い上がりが自分の中にあったのだと思います。もちろん、今もそれがなくなったわけではありませんが。
福音書の中のタラントのたとえ(25:14~30)では、良い人や能力は生かさなければならないという印象を受けますが、今日の箇所は、その人の善悪や能力のあるなしに関わらず、全ての人を一切問わず、選ばず、嫌わず、見捨てないで一切平等に接していかれるイエスさまの姿というものが見えてきます。頑張るものが報われるとか、努力したものが評価される世界とは全く違う世界がある、そのようなイエスさまの視点があるということを教えられるような気がします。全てを生かして、何も見捨てることがない。もちろん何をやってもいいというわけではありませんが、このイエスさまの眼差しに触れるとき、わたしたち人間が、いかに活動や経済、評価や効率、人の目ばかりを追い求め続けてきたか、またそのような物差しを信仰生活の中にも持ち込んできたか、わたしたち自身が人間中心の物差しというか、闇というか、愚というものを抱えているかが明らかにされるのではないでしょうか。
人間の愚ということに目覚めるとき、自分がこれは正しいという思いそのものが、迷いであり、闇であることが明らかにされていくように思います。実はわたしたちを苦しめているのは、他の誰でもない、わたしたちの思い込み、自己執着なのだということに気付かされます。そこで、イエスさまの愛に触れることによってのみ、新しい世界が見えてくるということなのでしょう。わたしたちの人生は自分の思い通りにならないことの連続です。それはわたしたちの人生で、必ず起こってきます。そのような人生の中で、わが身に起こってきた出来事が自分の人生を狂わせたと自分の外に責任を転嫁して終わらせるか、それともその現実を受け止めて、そこから生き方を問い直し、学んでいくかが問われていると思います。わたしたちは、闇であるから、愚であるからこそ、光を感じ取ることができるのだと思います。そのような世界に触れさせていただくことが出来るのが、今日の福音であるように思います。