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教会からのお知らせ

年間第32主日の福音と勧めのことば

2020年11月08日 - サイト管理者

信徒の皆さまへ

♰主の平和

昨日は立冬でした。
寒くなってきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。

■11月は「死者の月」です。
今年は、帰天された方のお祈りを希望される場合は、花井神父様がお祈りくださいますので、ご希望の方は封筒に祈ってほしい方のお名前を書き、お志を同封の上、司祭館の郵便受けにお入れになるか、直接花井神父様にお渡しください。
専用の封筒は、ホールと聖堂に置いてありますが、普通の封筒でも構いません。

京都洛北ブロック年間第32主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式は北村善朗神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。

■高野教会では、ホールでの地区別ミサが続いています。
明日、11月8日(日)は第2日曜日ですので、高野教会ではミサがありません。11月13日(金)はD地区(岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原)のミサです。
ミサに行かれる際には、10月24日にお送りしました「10月からのミサの再開につきまして」を再度お読みになり、注意事項をお守りくださいますようお願いします。
また、ほとんどの教会でミサの人数制限がありますので、他の教会のミサに行かれることがないようにお願いします。
引き続き、大塚司教様より、主日のミサに与る義務が免除されています。

カトリック高野教会

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福音朗読 マタイによる福音書 (マタイ25章1~13節)

〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕
「天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
賢いおとめたちは答えた。
『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、
用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
しかし主人は、
『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭  北村善朗

 今日は、神の国についての5人の賢いおとめと5人の愚かなおとめたちのたとえ話です。わたしたちは、この箇所を読むと、何となくもやもやとした気持ちになるというのが本音でしょう。わたしたちが考えるのは、油をもっているおとめたちは、どうして、油の足らないおとめたちに油を分けてやらないのかということです。教会では隣人愛を説いているではないかという声が聞こえてきます。すべての人が神の国に招かれているのに、どうして、油が足らなかったという理由だけで、神の国の宴に与れないのかと考えてしまいます。しかし、この福音は、マタイ固有の箇所であり、その当時のマタイの教会の価値観が入っているといわれています。マタイは紀元70年のエルサレムの神殿の破壊後に書かれていますから、当時多くのユダヤ人たちの間に流布していた終末思想を、キリスト教も受け継ぎ、イエスさまの再臨が迫っていると考えていたのだと思われます。ですから、イエスの再臨に備えて「目を覚ましていなさい」というメッセージになっているのでしょう。

 それでは、今を生きるわたしたちはどのようなメッセージを受け取ることができるでしょうか。また、5人の賢いおとめと5人の愚かなおとめのことをどのように考えればいいのでしょうか。ここで思い出されるのが、ヨハネの福音書の最後の場面です。ペトロがヨハネのことを気遣って、「主よ、この人はどうなるのでしょうか(21:21)」と質問する箇所があります。それに対して、イエスさまはペトロに「…そのことがあなたに何の関係があるのか。あなたは、わたしに従いなさい(21:22)」と答えられる場面があります。一見すると冷たい、突き放したような言い方です。そもそも、わたしたちは生きていくうえで、様々な苦しみや問題に直面します。そして、ほとんどの場合は自分の思い通りにならないことばかりです。イエスさまに祈っても解決しないこともあります。もちろん、イエスさまが栄光を現わされるためであれば、状況を変えてくださることもあります。しかし、よくよく考えてみると、苦しみや問題自体は、自分が引き受けていくしかないことです。わたしたちはそれを引き受けることができないときは、「何で自分だけがこんな目にあうのか」と愚痴や腹立ちの心を起こし、そこから逃れようとして、他人や出来事に責任転嫁をしようとします。しかし、わたしの苦しみや問題は、他の誰かが代われるものではありません。わたしが担っていくしかないものです。
 
 そもそも、宗教、そしてキリスト教の中にも、今の自分の状態がよくなることが救いだという錯覚が根底にあるように思います。しかし、現状を変えようとしても変わりませんから、そこから苦しみが生じます。実はイエスさまは、わたしたちに今のわたしたち以外のものになることを要求しておられません。イエスさまはありのままのわたしをそのままで愛しておられます。しかし、わたしたちは、自分でないものになることで救われ、聖性に達するのだと勘違いしています。聖人になるなどという考え方は、その最たるものでしょう。ところが、わたしたちは自分でないものになることは出来ませんから、自分でないもののふりをします。そうすると、必ず無理がたたって、ストレスになり、自分を卑下したり、自分を責めたりします。つまり、自分に暴力をふるうわけです。その自分に向けられた暴力は必ず、他者に向います。イエスさまは、そうではない、あなたをそのままで愛されているのですよ、あなたはあなたを生きなさいと言われているのです。隣の人の油が足りているかどうかではなく、先ず自分が自分であるところに立ち返りなさいと言われるのです。

 キリスト教で誤解されていることは、わたしたち自身がイエスさまを知り、出会う前に、先ず隣人愛を説いてしまうことです。隣人愛を否定する人はいませんから、自力では隣人愛を実行しようとしますが、出来ません。だから、隣人愛をしているふりをします。しかも、もともと自分のことを一番にしか考えられない存在であるのにもかかわらず、そのことを認めず、平気で他の人にも隣人愛を要求します。こうして、隣人愛という美名のものに暴力が連鎖していくわけです。何よりも先ず、わたしがイエスさまの愛を体験し、イエスさまと出会っていかなければならないのです。それはエゴイズムでも、身勝手でもありません。イエスさまのことを知らず、イエスさまと出会っていないのに、神学や聖書を勉強しただけで、イエスさまのことを知ったふりをして、隣人愛を説く人たちの何と多いことでしょうか。それこそ、イエスさまのもっとも嫌った偽善です。

 人類が自力ですべてができると思ってやってきたことが、原発や核兵器、地球規模の環境破壊、テロや戦争を生み出し、地球は今、存亡の危機に晒されています。それなのに、キリスト者でありながら、自分たちも自分のこときりしか考えられない身勝手な人間であることを認めようともせず、気づかないふりをして、たいそう立派な宣言文を出したります。それでは、単なるお題目で終わってしまいます。先ず、本来の自分の姿を見つめること、愚である自分を自覚していくこと、それはイエスさまと出会うことによって初めて可能になることなのです。そして受け売り、借り物でない本来の自分に立ち返ること、そのことなしに、何を言っても人の心は響きませんし、人を動かすことも出来ません。わたしたちは、先ず、ありのままのわたしを受け入れてくださっているイエスさまの愛との出会いに、飢え乾かなければならないのではないでしょうか。愚である自分に立ち返るとき、そこからイエスさまとの新しい歩みが始まるのではないでしょうか。

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