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教会からのお知らせ

待降節第2主日の福音と勧めのことば

2020年12月06日 - サイト管理者

信徒の皆さまへ

♰主の平和

12月に入り、寒くなってきました。お変わりございませんか。
待降節第2主日です。アドベントろうそくの2本目に灯がともりました。
今年は目で見ることはできませんが、大切なものを心の目で見ながら過ごしたいと思います。

京都洛北ブロック待降節第2主日のミサが、YouTubeにアップされています。
司式はウイリアム神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。

■高野教会では、ホールでの地区別ミサが続いています。
ミサに行かれる際には、注意事項をお守りくださいますようお願いします。
また、ほとんどの教会でミサの人数制限がありますので、他の教会のミサに行かれることがないようにお願いします。
引き続き、大塚司教様より、主日のミサに与る義務が免除されています。

お願い
ミサに参加の際は、コロナ感染予防のため
①手指の消毒、マスク着用、自宅での検温
②氏名・連絡先を記入したメモをご持参ください。

カトリック高野教会

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福音朗読 マルコによる福音(マタイ1章1~8節)

神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、
罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、
ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭  北村善朗

今日はマルコの福音書の最初の部分が朗読されます。マルコの福音書の特徴は、書き出しが「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、マタイやルカと違って、イエスさまの誕生やイエスさまの幼年時代のことについて一切触れません。というか、マルコはイエスの出自や家族構成や職業について、関心を示していません。実際、マタイでは、マリアの名前が偶然一度、ヨゼフの名前は一度も出てきません。つまり、「神の子イエス・キリストの福音」を述べるために、マルコにとっては、マリアもヨゼフも特に必要がなかったということです。また、マルコの福音は全体で16章ですが、半分はイエスさまの受難物語になっています。先週も待降節、アドベントの意味を話しましたが、アドベントは「主が来られる」という意味で、イエスさまの誕生を待つという意味はありません。今年はマルコを読んでいきますが、マルコは最初に書かれた福音書であり、キリスト教信仰の骨格が浮き彫りにされていくと思います。

待降節、アドベントと言われる言葉は、ギリシャ語の顕現を現わすエピファニーと同じで、神が自らを現わされること意味しています。そして、エピファニーは、光の祭りとも言われるユダヤ教の神殿奉献記念祭(ハヌカ)に由来する、1月6日に祝われる主の公現のことを指しています。元々、12月25日に主の降誕を祝う習慣はなく、1月6日にイエスさまがこの世界にご自身を示されたこととして、イエスさまの誕生、東方の博士の訪問、主の洗礼、カナの婚礼などを祝っていました。12月25日に主の降誕が祝われるようになったのは4~5世紀で、西ローマ帝国でのキリスト教の拡大に伴い、12月25日のローマのミトラ教の太陽神の誕生の祭がキリスト教化されたものだと言われています。キリスト者が初めから祝ってきたのは、主の日、日曜日です。イエスさまが、わたしたち人類を罪と死の闇から解放するために、復活された週の初めの日が日曜日であり、主日こそが、キリスト者にとっては根本的な祝日であると言えるでしょう。マルコはイエスさまの誕生について何も触れていませんから、初代キリスト者自身がイエスさまの誕生にほとんど関心を示さなかったことが分かります。しかし、時代を経るに従って、わたしたちを罪と死の闇から解放してくださったイエスさまの出自についても知りたいと思うのは人情ですから、それが1月6日に祝われるようになり、ローマ教会では、12月25日に祝われるようになりました。しかし、わたしたちにとっての根本的な祝日は、大きな主日である年一度の復活祭と日曜毎の主日であることをはっきり抑えておきましょう。だから、待降節であっても、主日はイエスの死と復活を記念することが優先されます。

さて、今日の福音の中で、洗礼者ヨハネが呼びかけるのは、罪のゆるしを得させるための「悔い改め」の洗礼です。この悔い改め、メタノイアは、今までのモーセの律法が命じてきた、人が汚れるたびに繰り返される沐浴ではありせんでした。ファリサイ人はこの掟に忠実で、日に何度も沐浴したと言われます。今、わたしたちがしている手洗いのようなものです。しかし、ヨハネの宣べ伝えた悔い改めの洗礼は、一度きりの沐浴でした。おそらく、ヨハネは全く新しい世界が来ようとしていることを予感し、人間中心の生き方から、神中心の生き方へと向きを変えることを意識したのでしょう。沐浴のような、その時々に繰り返される自己反省と軌道修正ではなく、自分から神へと向きをかえる回心は1回きりだと考えていたのだと思います。確かに、わたしたちは皆、自己中心です。でもそのことに気づき、神へと向きをかえるのは、おそらく一生に一度でしょう。しかし、洗礼を受けたからといって、わたしたちの自己中心性が治るわけではありません。信者であっても、どこまでいっても自己中心な罪人であることに変わりはありません。しかし、自分が本当に自己中心であったことに気づき、そこから神へと向きをかえるその気づきは、人生において一度でしょう。これが回心と改心の違いだと言えばよいでしょう。ですから回心は、まさに、わたしとイエスさまとの決定的な出会い、ゆるしと喜びのときでもあります。イエスさまが来て、今まで自力で築き上げてきた業績や生き方を、根底からひっくり返される出来事なのです。ですから、キリスト教では、洗礼は一度きりと考えられてきました。また、古代、ゆるしの秘跡も一生に一回きりであったと言われています。それは、ゆるしの秘跡をもう一度の回心の場として捉えてきたからです。大人の洗礼がなくなり、幼児洗礼が一般化する中で、徐々にゆるしの秘跡を改心の場として捉えるようになり、繰り返される自己反省と軌道修正の場になってしまいました。結果として、ゆるしの秘跡自体がもっている本来の力、イエスさまとの出会いの機会ではなくなってしまい、いわゆる人間的な暗い懺悔の場になってしまいました。そこでは、ザアカイのように、イエスさまとの出会いという喜びが感じられないのも当然です。

洗礼者ヨハネは、「わたしより優れた方が来られる…その方は聖霊で洗礼をお授けになる」というわたしたちへの呼びかけを、どのように聞くかはわたしたち次第です。回心というのは、悪い自分を度々改めて、よい人間になるというような自力のレベルのことではないのです。回心は、あるとふっと向こうの方からやってきて、今までのどこまでいっても自己中心的であった己の身の愚かさに気づかせていただくことなのです。自分で努力して反省するだけではどうしても間に合わないことが、恵みによって知らされることなのだと言ったらいいかもしれません。信者であるだけではどうにもならないことを、イエスさまがわたしに知らせてくださることだともいえるでしょう。そのとき、わたしたちの人生そのものが問われ、あり方が問われるのです。その時に初めて、信仰生活の大切さに気づき、真の信仰生活が始まるのです。

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