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教会からのお知らせ

主の降誕の福音と勧めのことば

2020年12月24日 - サイト管理者

主のご降誕、おめでとうございます。

大塚司教様のご降誕メッセージです。

■クリスマスの勧めのことばを以下に掲載いたします。
聖家族(12/27)と主の公現(1/3)の勧めのことばはお休みで、主の洗礼(1/10)からといたします。

京都洛北ブロック主の降誕夜半のミサが、YouTubeにアップされています。
司式は北村神父様です。

京都教区時報1月号が京都司教区のHPに掲載されています。大塚司教様の年頭書簡をお読みください。

カトリック高野教会

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ2章1~14節)

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

(ルカ1章26~38節、ヨハネ1章1~18節)

 今年のクリスマスは、特別なクリスマスになりました。このような状況で、クリスマスを迎えることが出来たことに感謝したいと思います。2千年前のクリスマスも同じような、何もない闇の中での出来事であったと思います。
クリスマスはイエスさまが、わたしたち全人類のために、人となってこの世に現れてくださったことを祝います。元々は1月6日にお祝いする主の公現、エピファニー(現れるという意味)が起源であり、神さまが人間となって、ご自身をわたしたち人類に現われてくださったことを祝います。それぞれの福音書によって、イエスさまの人類への現れ方の描写が違いますから、古代教会では1月6日に、マタイに見られる3人の東方の占星術の学者の礼拝、ルカに見られる羊飼いの礼拝、マタイ、マルコ、ルカに共通して見られるイエスの洗礼(ヨハネにはイエスの洗礼に記述はない)、ヨハネの福音に見られるカナの婚礼での最初のしるしなど、イエスさまの人類への初めての顕現を祝ってきました。4~5世紀になって、それを時系列に並べて直して、主の降誕、主の公現、主の洗礼として祝うようになったのです。元々は1つの祝日で、イエスさまの誕生を祝うということに焦点があったのではなく、人類への神さまの顕現が中心でした。それぞれの福音史家が、どの視点からイエスさまの顕現を捉えるかによって違ってきますが、基本的なメッセージは同じです。

 今日の主の降誕では、主にルカの記述から、羊飼いの礼拝が描かれます。それで今日は、そのことをお話ししてみたいと思います。
 ことの始まりは、ローマ皇帝の命令で、全領土の住民に住民登録を本籍地で行うようにとの命令が下ったところから物語が始まります。これは、ローマ帝国が人頭税をユダヤ人たちに課すため登録です。人頭税を課し、徴兵制を確立し、他国と戦争をするために資金を集めるという目的で行われたものです。今でいうマイナンバー制度のようなものです。いつの時代でも、国家は、間違うと国益という美名のもとに国民をコントロールして、支配しようとします。ヨゼフとマリアはナザレから120キロ離れたベトレヘムまで旅をしなければなりません。120キロというと京都から名古屋ぐらいまでの距離があります。臨月のマリアを伴っての旅ですから、大変な旅であったでしょう。しかし、ベトレヘムに彼らのための宿はありませんでした。理由は分かりません。満室だったのか、他の理由があったのかもしれません。彼らは家畜のための、汚い、糞だらけの家畜小屋に泊まり、そこで出産します。誰も助けてくれない、祝福してくれない、祝っても喜んでももらえない中でのイエスさまの誕生でした。そして、この幼子は、ヨゼフにとってもマリアにとっても望まない子どもだったのです。信仰的には受け入れようとしていたのでしょうが、人間的にそう簡単なことではなかったでしょう。飼い葉桶に寝かせたと書かれていますが、原文では飼い葉桶に置いたというにニュアンスです。生まれたての子を抱きしめるか、添い寝をするのが普通ではないでしょうか。子どもを飼い葉桶に置いてしまう、唯、わたしたちが想像するような温かい、心安らぐベトレヘムではなかったということです。そして、この幼子が、人類の救い主でした。

 この知らせは天使たちによって、先ず羊飼いに知らされます。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしています。彼らはなぜ、住民登録に行かないのでしょうか。彼らは、住民登録する必要がなかったのです。つまり、人として数えられない、人間として扱われなかった人たちでした。ユダヤの歴史の中では、彼らは遊牧民族でしたが、カナン地方に定住するようになってからは、羊飼いは人間として最低の仕事になっていきました。羊飼いは、律法を守ることが出来ない仕事だったからです。今日は安息日だからといっても、羊がいるので仕事は休めません。だから大地主や牧場主は、自分たちがモーセの律法を守るために、エルサレムで犯罪を犯したり、また奴隷となったりして、もうこれ以上堕ちることが出来ないところまで堕ちた人たちを、羊飼いとして雇っていました。彼らは、「所詮、自分なんか生きていても意味がない。自分なんていなくても誰も困らない。自分たちなんかいなくなった方がいいんだ」と思っていた人たちです。しかし、生きていくためには、働かなければなりません。だから、誰もやりたがらない仕事をして、日毎の糧を稼いでいました。イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちは、律法学者でも、ファリサイ人でもありませんでした。人として下の下まで堕ち、また人々からそのように見なされていた羊飼いだったのです。彼らは、「さあ、ベトレヘムへ行こう。主が知らせてくださったことをその出来事を見ようではないか」と言います。

 そのベトレヘムはどこでしょうか。それはわたしたちです。わたしたちがベトレヘムであり、羊飼いなのです。汚く、糞だらけ、ゴミだらけであったり、様々な重い鎧をつけて、その重みに耐えかねていたり、憎しみや妬み、怒りで一杯になっていたり、また、自分は生きていても価値がないと思って自分を否定しているわたしたちがベトレヘムです。その中に、イエスさまも全く無力な幼子となって、お出でになりました。わたしたち人類が、その幼子をどのように扱ってしまうかもわからない、ベトレヘムであるわたしたち人間のところに来られたのです。そして、そのベトレヘムにイエスさまを拝みに来た人たちは、下の下まで堕ちた羊飼いでした。イエスさまは、糞と藁とにまみれたベトレヘムに尋ねてきた人たちの友となられたのです。「恐れるな…今日…あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。イエスさまは、まさに暗闇に輝く光そのものでした。今日、祝うベトレヘムの出来事をもっとわたしに引き寄せて味わってみましょう。自分がベトレヘムであることに気づいているわたしのなかに、イエスさまはお生まれになります。自分がベトレヘムであることに気が付かず、認めようとしない人のところに、イエスさまはお出でになることは難しいでしょう。今日、お生まれになった幼子が、わたしたちの友であることを改めて、味わってみましょう。

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