主の洗礼の福音と勧めのことば
2021年01月10日 - サイト管理者信徒の皆さまへ
♰主の平和
鴨川も凍るほどの厳しい寒さが続いていますが、お変わりございませんか。
京都教区からのお知らせにあります通り、ミサの中止はまだしばらく続きそうです。どうそコロナにも寒さにもくれぐれもお気を付けになり、心を合わせて祈り続けましょう。
■京都洛北ブロック 主の洗礼のミサが、YouTubeにアップされています。
司式はウイリアム神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
■教区の信仰教育委員会から、例年3月に行われる侍者合宿は、昨年に引き続き、残念ながら中止との連絡がありました。
カトリック高野教会
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福音朗読 マルコによる福音(マルコ1章7~11節)
[そのとき、洗礼者ヨハネは]こう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は主の洗礼のお祝い日です。主の洗礼のお祝いは、1月6日に祝われていたイエスさまの人類への公の現れをお祝いしてきたものが、4~5世紀になって、主の降誕、主の公現、主の洗礼として別れて祝われるようになったことが始まりです。ですから、降誕節のメッセージは基本的には同じで、わたしたち人類への神としてのイエスさまの現れを祝います。いずれも、神の人類への現れ(自己啓示)が中心であり、それがどのような形で、どのような人類への現れであるかが、それぞれの視点から祝われます。その共通の特徴は、闇、罪、貧しさ、弱さ、無力さそのものであるわたしたち人類に、神ご自身が、貧しさ、弱さ、無力さそのものとなって現してくださった、つまり神がわたしたち人類の一員となられたことにその特徴があり、その理由は愛という一言に尽きると言えるでしょう。
今日の主の洗礼の祝いは、イエスさまが、わたしたち人類とひとつであることを現すとともに、もう一つのメッセージがあります。それは、イエスさまの自己認識です。「わたしとは何か」という問いは、わたしたちにとっても根本的な問いでもあるわけです。イエスさまは神さまです。さらに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴きます。これはイエスさまに言われたことでもあり、同時に、全人類の代表としてイエスさまが洗礼を受けられたという観点からみれば、わたしにも言われたことでもあると言えるでしょう。ちなみに「わたしの心に適う者」というと、資格や適性を問うような変な訳になっていますが、「あなたはわたしの喜びである」という意味であり、わたしたち人類は皆、神の子であり、神さまから見たら、神ご自身の喜びであるということなのです。わたしたち人類は、神の子らとして様々の民族、文化、宗教などの違いはありますが、皆、神の子らであるという点において、差異も区別もありません。皆、神の子であり、わたしの存在は神さまにとって喜びであるということなのです。
この箇所は、イエスさまが一体誰であるか、神か人間かという論争があったときに争点になった箇所でもあります。ある人たちは、イエスさまは洗礼のときから、神の子になったと主張しました。でも考えてみれば、おかしなことで、イエスさまは洗礼を受けようが受けまいが、イエスさまです。ですから、洗礼によってイエスさまは神の子になったのではなく、洗礼はイエスさまが、自分は神の子であることをはっきりと自覚された出来事であるというふうに言えるでしょう。そのように見てくると、わたしたちの受ける洗礼も、新しい観点が見えてくるように思います。
教会は伝統的に、洗礼によって救われ、神の子とされ、罪がゆるされると教えてきました。現代は、キリストを信じる共同体に加入する入信の秘跡という点を強調するようになりましたが、基本的な教えは、洗礼は救いのために必要で、洗礼によって罪(原罪と自罪)がゆるされ、神の子とされるということです。そうなると、洗礼を受けないと救われないのかということが大きな問題となってきます。また、洗礼を受けて神の子となるのであれば、それまでは一体何者だったのかということになります。わたしたちは鬼子だったということでしょうか。イエスさまが、洗礼を受けたことによって神の子となられたのではないように、わたしたち人類は、洗礼を受けて初めて神の子になるのではありません。そうではなくて、わたしたち人類自体は、いのちの源である神から生まれているわけですから、皆、神の子であり、兄弟姉妹です。唯、そのことを知らない、あるいは忘れた状態でこの世に生まれてくると言ったらいいかもしれません。
わたしたちキリスト者が洗礼を受けるのは、自分ひとりが救われるためではなく、全人類が神の子であることのしるしとなるために洗礼を受けるのです。イエスさまの切なる願いは、全人類の救いと幸せです。この世のひとりであっても救われないのであれば、全人類が救われるということはありません。その逆も然りで、全人類が救われない限り、わたしが救われることもあり得ないのです(ヨハネ3:16)。わたしたちが洗礼を受けたのは、自分が神の子となって、救われて、自分が天国に行くためではありません。それが出発点であっても構いませんが、そこにいつまでも留まっているなら、こんな自己中心的な、エゴイズムな宗教はありません。しかし、残念ながらそのような教えや説教が、未だ教会の中でまかり通っていることもしばしばです。これほど、イエスさまの思いから遠くかけ離れたことがあるでしょうか。わたしたちが洗礼を受けたのは、わたしたちが全人類の救いの秘跡、しるしとなるためです。わたしたちの使命はこれ、教会の使命もこれです。教会は、選ばれ救われた人々の集団ではなく、自分たちはそこまでしないと救われない罪人の集まりなのだと謙虚に認めることでしょう。
わたしたち人類は、生まれながらにして神の子ら、兄弟姉妹であることに気づいてください、どうぞそのような罪人であるわたしたちを見てくださいと、教会は宣言するのです。これこそがわたしたちの使命であり、洗礼の意味なのです。その洗礼の恵みを生きることは、大々的なことをすることではありません。自分の闇、罪、貧しさ、無力さを抱えながら、それにもかかわらず神の子であること、わたしの存在を喜んでいてくださる方があること、イエスさまの兄弟姉妹であることを意識して、日々、感謝のうちに生きることなのです。決して難しいことをすることではないのです。わたしたちが、毎日しなければならない小さいことを、神の子としてコツコツと地道に生きることなのです。それが洗礼の秘跡、洗礼の恵みを生きることに他なりません。洗礼式自体が秘跡ではないのです。洗礼の恵みを生きることこそが、洗礼の秘跡です。洗礼を受けることで、自動的に何かがもたらされるわけではありません。信じて生きることなしには、洗礼は単なる儀式になってしまいます。