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教会からのお知らせ

四旬節第5主日の福音と勧めのことば

2021年03月21日 - サイト管理者

信徒の皆さまへ

♰主の平和

高野教会のお庭の桜が、ミサに来られる皆さんを待っていたかのように、少しずつ咲き始めました。
お庭のあちこちに、春の花も咲いています。
ようやく昨日から高野教会の聖堂でのミサが再開されました。
ミサの日程をご確認の上、ご自分の地区のミサにご出席ください。
他地区のミサ、他教会のミサにはあずかれませんのでご了承ください。

■京都みんなで捧げるミサ四旬節第5主日の配信はお休みです。

京都教区時報4月号が、教区のHPにアップされましたのでお読みください。

■「カルメル会四旬節講話シリーズ」のご紹介です。
⑤3月21日(日)00:00よりご視聴になれます。
大瀬高司(カルメル会士)「何も咲かない寒い日-今を問う」  

カトリック高野教会

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ12章20~33節)

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の箇所は、イエスさまがエルサレムへの入城直後の場面で、ご自分の身に起こることを予想しておられます。過越祭のために、多くの人々が巡礼にやってきますが、その中にユダヤ教親派のギリシャ人たちも礼拝のためにやってきていました。そのギリシャ人が、イエスさまにお目にかかりたいと言ってきたとき、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。話の展開としては奇妙な箇所ですが、おそらく、ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代には、キリスト教がユダヤ教の枠を超えて、多くの異邦人たちに受け入れられている状況が反映しているのかもしれません。「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われる、その「とき」とは、イエスさまのエルサレム入城によって、イエスさまの十字架への歩みが確実になったということを意味しています。つまり、イエスさまの十字架への歩みによって、人類の救いのみ業が確実になるときが来たということでしょう。そして、イエスさまが、受けることになる栄光についての説明が続きます。「一粒の麦は、地に落ちて…死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る…」。イエスさまは、自分の死を意識しておられることが分かります。イエスさまが受ける栄光とは、人類のためにいのちを差し出すこと、それが、イエスさまの栄光ということなのだと言えるでしょう。栄光とは、その人がもっともその人らしくなることだからです。

 そして、イエスさまの心の動きが述べられていきます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください」。この箇所は、ヨハネ福音書のゲッセマネであると言われています。イエスさまは、このときのために来たということです。しかし、イエスさまとて人間であり、大きな苦しみのときを前にして、平静ではおられなかったのです。というか、わたしたちと同じように、苦しみ、嘆き、泣き叫ばれ、そこから逃げたいと思われたということなのです。今日の第2朗読で、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです」とあります。つまり、イエスさまは、わたしたちと同じようになられたということです。だから、わたしたちの救い主なのだと言われます。

 また、同じヘブライ書のなかで、「(イエスは)わたしたちの弱さに同情できない方ではなく…あらゆる点において、わたしたちと同様に試練にあわれたのです(4:15)」と述べ、イエスさまが、わたしたちと同じように弱さを身にまとっておられ、痛み、苦しまれたのだと言います。だから、わたしたちのように自分のことに無知で、迷っている人を思いやることが出来るのだといいます。仏教の経典に「譬(たと)えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に乃ちこの華を生ずるがごとし(維摩経)」というのがあります。イエスさまは神さまとして、高いところから人間をあわれみ、救ってやろうとか、頑張っている人は救ってやろうというのではありません。自らが、泥にまみれて、その中から蓮の花が咲くように、わたしたちと、どこまでも泥にまみれて、そして、泥にまみれながら、わたしたちをその地獄の淵から救い出してくださるということだと思います。

 イエスさまの十字架は、「ユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かなもの(Ⅰコリ1:23)」かもしれませんが、わたしたちにとっては、「神の力、神の知恵」なのです。誰が、死刑囚になった人に帰依し、その御像を作って拝む人がいるでしょうか。常識ではあり得ないことです。しかし、それをしているのが、わたしたちキリスト者なのです。ローマ帝国にキリスト教が広まり始めたころ、キリスト者を風刺して、十字架に付けられている驢馬(ロバ)の絵が描かれていました。実は、わたしたちが信じていることは、世間から見たら全くの世迷言に他なりません。しかしながら、わたしが苦しむとき、自分にまったく価値がないと思えるとき、自分が誰からも必要とされていないという心の闇に沈むときも、たとえ、その苦しみは代われなくても、側で手を取っていてくれる人がいることが、どれほど、わたしたちの心の安心が癒しになるでしょうか。

 金子みすゞの詩に、「さびしいとき」というのがあります。「わたしがさびしいときに、他所の人は知らないの。わたしがさびしいときに、お友だちは笑うの。わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。わたしがさびしいときに、仏さまはさびしいの」。親であれば、我が子が苦しむとき、代わってあげることもが出来ないので、優しくするのが精一杯でしょう。しかし、神仏は、わたしが苦しむとき、ともに苦しんでくださる。わたしが泣くときに、ともに泣いてくださる。これこそが、イエスさまの十字架の栄光に現わされた、神の絶対的慈悲であると言えるでしょう。イエスさまだけが、わたしの苦しみ、痛み、病、死を引き受けてくださることが出来る。それこそが、イエスさまの十字架への歩み、栄光であり、イエスさまにとって、もっともイエスさまらしいことなのでしょう。そのイエスさまがわたしとともにいてくださること、これが福音に他なりません。

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