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教会からのお知らせ

復活節第5主日の福音と勧めのことば

2021年05月02日 - サイト管理者

主の平和

ゴールデンウィークの真っ最中ですが、緊急事態宣言の発令中の復活節、いかがお過ごしでしょうか。
5月は聖母月です。感染症の終息のために、ロザリオの祈りのうちに繋がっていたいと思います。
 
■京都みんなで捧げるミサ 
 復活節第5主日のミサの司式は北村神父様です。

京都教区時報5月号

教皇、5月にロザリオの祈り呼びかける 「聖母月」にパンデミックの終息を願う
 毎日、世界の各地からロザリオの祈りのライブ配信があります。

カトリック高野教会

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ15章1~8節)

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日はイエスさまとわたしたちとの関りを、ぶどうの木にたとえて話されています。ここで非常に大切なことは、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われたということです。わたしたちは、この箇所を聞くと、無意識に、イエスさまが幹で、わたしたちは枝のように理解してしまいます。そして、枝が幹につながっていることで、多くの実を結ぶことが出来るので、わたしたちもイエスさまにしっかりとつながるようにしましょうと言って、教会とか秘跡とのつながりを強調する話がなされます。

 しかし、イエスさまは、“わたしはぶどうの木である”と言われ、“わたしはぶどうの幹である”とは言われませんでした。ぶどうの木というのであれば、幹も枝も葉も根も、すべてを含んでいる木全体を指しています。ですから、わたしたちがその枝だと言われても、枝もぶどうの木です。枝とぶどうの木は別個の生命体ではなく、同じいのちを生きるひとつの生命体です。もしイエスさまが、わたしはぶどうの幹で、あなたがたはその枝と言われたのであれば、まったく意味が変わってきます。幹と枝であれば、それはぶどうの木の部分の分類、役割です。その見方で考えると、枝が幹につながる限りにおいて、枝はその役割を果たし、ぶどうの実を実らせることが出来る。しかし、イエスさまがぶどうの木全体なら、枝もそのぶどうの木ですから、わたしたちはぶどうの木そのものの中に位置づけられるということになります。わたしたちは気をつけないと、このぶどうの木のたとえを読むときに、イエスさまと自分の関わりを機能的に捉えてしまう危険性があるということです。ちょっとした違いですが、これはイエスさまとわたしたち関わりを捉えるうえで、根本的な勘違いの元となります。

 イエスさまが幹で、わたしたちが枝だという機能的な捉え方は、一見すると分かりやすく思われます。しかし、その捉え方は、言わば、二言論的な「役に立つか立たないか」、「損か得か」という分別を前提にした見方になってしまいます。だから、実を結ぶことが目的になり、実を結ばない枝は切ってしまえということになります。例えば、教会で言うならば、どこそこの教会に行って、ミサのお手伝いやお掃除を一生懸命やる、教会維持費も収めて、役員もボランティアもする。いわゆるよい信者さんということになります。しかし、わたしたちは、必ずそのようなことが出来なくなるときが来ます。よく、お年寄りの信者さんが来られて、「わたしは何もできません」と言われることがあります。そうすると、わたしたちは返事に困ってしまうのですが、イエスさまは、その人が「役に立つか、役に立たないか」で見ておられません。でも、そういう信仰教育を受け、奉仕の意味を取り違えて、それがよい信者だと思って何十年と生きてきた人に、今さらそうでないですよと言ってもなかなか伝わりません。その人のイエスさまと関わりは、表面的なところに留まってしまい、機能的関わりの域を出ないことになります。しかし、それを誰も責められません。責められるとしたら、今までのそのようにしてきた教会のあり方が問題でしょう。そのような信仰観、価値観こそ、まさに頑張ったものは報われて、頑張れないのは自分の責任だと決めつける現代の風潮そのものなのです。社会貢献できないようなものは、報われるに値しないという考え方です。これは、イエスさまの考えとはまったく異なっています。

 しかし、ぶどうの木と枝と関わりを、いのちの関わりとして捉えると、実が結ぶかどうかということは、あくまでも結果であって、ぶどうの木は同じ樹液で生かされていて、枝と幹というような木の機能的な違いではなくて、ひとつのいのちで生かされているという現実が浮き彫りにされてきます。だから、枝が切られたら、ぶどうの木全体が痛むのです。それを機能的な関わりとして捉えてしまうと、パウロがコリントへの手紙で警告しているように、「お前は要らない」とか、「お前は役立たずだ」という発想になっていきます。そのような、発想に陥りがちなわたしたちに、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅰコリ12:27)」と言い、わたしたちは、同じ大きないのちを生きる共同体、仲間であることに意識を向けさせようとします。

 わたしもときどき、使ってしまってぞっとしますが、「教会には人材がない」という言い方をしてしまいます。わたしたちは一人ひとりが、いのちとして扱われなければならないのに、いつの間にか人間を人間と見ないで、人材として見ています。わたしたちは皆、人間として生まれているにもかかわらず、いつの間にか周りからも「人材」として見られてしまっているということです。人材は言葉の通り、人間としての材料で、はっきり言う“商品“ということです。商品はお金に換算したとき、どれだけの値打ちがあるかで、その価値が決まってきます。わたしたちは、どこかそのように商品として育てられてしまっています。社会貢献が出来て、周りに役に立つとか、使えるかというような雰囲気が、社会に満ちているわけです。そうすると、実を結ぶ枝か、結ばない枝かで選別されます。それが会社であれば、会社に役に立つかどうか、教会であれば、教会に役に立つかどうかで選別されるということです。神学生のときに、「評判の良い神学生になるように」とかいう言い方がされ、それは、一体どういうことなのかと思い惑ったことを思い出します。つまり、教会にとって、目上にとって都合のよい、役に立つ人材になるように言われたのです。もちろん、神学生個々の資質の問題もあるでしょうが、そのような誤った価値観や司祭養成の中から、本当によいものが出てくるはずがありません。教会の中であっても例外ではないのです。
 
 ぶどうの木のたとえを通して、わたしたちは改めて自らの価値観が問われていると言えるでしょう。これだけグローバリゼーションが進み、地球家族という言葉が使われる一方で、自分のこときりしか考えられない人間自身の姿が、ますます露呈されているように思います。特に、コロナ禍の中で、その人の価値観や生き方が露にされているように思います。ひとりの人間を、無限のいのちの繋がりの中で見ていくか、数、統計の対象として見ていくか。わたしたち人類、いや地球は、神のいのちで生かされているひとつの大きな生命体、大海を渡る舟のようなものではないでしょうか。だから、枝が切られれば、ぶどうの木すべてが痛む。指にけがをすれば、わたしのすべてが痛むのと同じです。パウロは、「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」と言います。わたしが苦しめば、他のすべてが苦しむ。わたしが喜べば、他のすべてが喜ぶ。誰かが苦しめば、皆すべても苦しむ、わたしも苦しむ。そこにはもはや自他の区別はない、同じいのちを生きているひとつの大きな生命体としての姿があります。神あって世界あり、世界あって神あり、わたしたちはこのような大いなるいのちの世界の一員なのです。そのことを知らせて頂いたのは、イエスさまの十字架によるわたしたちへの愛を通してです。聖金曜日の十字架賛歌で、「世の救いをになった木、十字架の木だけが、闇に漂うこの世界を港に導く救いの舟、小羊の血潮に染まるとうとい木(2,9)」と歌います。今、このいのちの感覚を失ってしまった現代人にとって、わたしたちは、教会は何を語ることが出来るのでしょうか。

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