三位一体の主日の福音と勧めのことば
2021年05月30日 - サイト管理者♰主の平和
教会のお庭の紫陽花も、ようやく色づいてきました。
花井神父様と有志の皆さんがお庭の芝刈りをしてくださり、とてもきれいになりました。
緊急事態宣言が再延長されました。
洛北ブロック担当司祭団は、京都は感染者が減少していますが、ミサの再開は、ワクチン接種状況などの様子も見ながら判断していきたいということです。
三位一体の神に希望を託し、歩んでいきたいと思います。
どうぞご自愛くださいませ。
■京都みんなで捧げるミサ
聖霊降臨の主日のミサの司式は、菅原友明神父様(洛東ブロック担当司祭)です。
■京都教区時報6月号が発行されました。京都教区のHPに掲載されています。
冊子が必要な方は、高野教会の聖堂後ろに置いてありますので、聖体訪問のついでにご自由にお取りください。
■京都司教区聖書委員会発行の新しい本が出版されました。
新刊〔シリーズ15〕「神の正義といつくしみ」
聖書委員会に申し込むと、割引価格で購入できます。
その他の本もあります。
カトリック高野教会
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三位一体の主日 福音朗読 マタイによる福音(マタイ28章16~20節)
[そのとき、]十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は三位一体の祝日です。福音書の中で、父と子と聖霊の名前が出てくるところは、今日のマタイの箇所だけです。この箇所は、直接にイエスさまに由来する箇所ではなく、おそらく初代教会の中で行われていた入信の儀式である洗礼のときのことばが、マタイが福音書を編集する際に挿入されたと考えるほうが妥当でしょう。最初の頃は、もっぱら「イエスの名による洗礼」が行われていましたが、ほどなく、「父と子と聖霊の名による洗礼」に取って替わられ、三位一体はキリスト教の教義になっていきました。わたしたちはそのことを当たり前のこととして教えられてきました。しかし、実際、この三位一体の教えはどのように成立してきたのでしょうか。今日は、そのことを少し、考えてみたいと思います。
史実上、分かることは、ナザレのイエスという人物がいて、その人を中心にして、ユダヤ教の刷新運動が行われました。そして、そのイエスという方は、ユダヤ人が信じている神さまは、単なる部族神ではなく、全世界、全人類の神さまであり、その神さまの本当の姿を当時のユダヤ人に分かりやすく伝えようとしました。それを、イエスさまは、神さまはアッバのような方であると表現しました。
アッバというのは、今でも、ユダヤ世界で子どもがお父さんに対して使う呼び名です。わたしたちなら、パパとかお父さんにあたります。そのことばは、子どものお父さんへの信頼と愛情すべてを含んだ、ユダヤ人にとって、とっても馴染み深いものでした。しかし、子どもがお父さんに信頼と愛情を抱くのは、先ずお父さんが子どもに愛情をかけて育てたからであり、その愛情が基礎になって、子どものお父さんへの信頼と愛情が生まれます。そのような、すべてのニュアンスを含んだ言葉が、アッバであるということです。
当時のユダヤ人たちは、自分たちが信じている神さまに対して、アッバと呼びかけることはありませんでした。当時のユダヤ人にとって、神さまはどちらかというと正義の神で、神さまから与えられた掟、律法を遵守することによって、神さまから好意を得られると考えていました。その神さまは、親のような方だという言い方が、旧約聖書の中にわずかにみられますが、当時のユダヤ人にとっては親のような存在ではなかったようです。そのような状況の中で、イエスさまは、神さまは掟を守るものには恵みを与え、守らないものは罰するような神ではなく、すべての子等を慈しむアッバであると述べ伝えたわけです。この教えは、多くのユダヤ人、特に貧しい人々、その日の食い扶持にも労苦する人々、また律法を厳密に守れない多くの民衆から、熱狂的に支持されました。そして、イエスさまは、アッバである神とその方への信頼を説き続けました。その結果、当時、律法学者やファリサイ人から反感をもたれ、わが身に十字架を引き寄せる結果ととなってしまいました。
アッバという言い方は、男性中心のユダヤ教社会には馴染みやすいものだったのでしょうが、日本人にとっては、お父さんより、お母さんの方がぴったりくるかもしれません。あるいは、”親様”という言い方が、日本の諸宗教の中でも使われています。しかし、現代人にとって、父親とか母親というイメージで、神さまの姿を正しく伝えられるのかというと大きな問題があります。子どものためと言いながらに子どもを自分の思う通りコントロールしようとしたり、子どもに暴力を振るったり、毒親という言葉もあるぐらいですから、親というイメージだけで、神さまの愛を正しく伝えること自体、現代社会では非常に、困難であると言わざるを得ません。
初代教会では、イエスさまは人間であり、かつ人間となった神であると信じるようになっていきます。そうすると、イエスさまも神、イエスさまがアッバとして伝えた方も神であるということは、ユダヤ教に由来する一神教に反することになります。そこで、内省が深められ、その結果、三位一体という教義が成立していきます。御父である神、御子である神、聖霊である神、この神はひとつの神であるという教えです。わたしたちもそのように教わりましたが、人間の理性では、それを実証することは出来ません。ただ、イエスさまが神さまであるとしたら、自分を神だとは言えないでしょうから、神さまはアッバのような方だと言うのが、一番、ユダヤ人にとって受け入れやすかったのだということだと思います。正直なところ、イエスさまがたとえとして、神さまのことをアッバだと言ったのか、本当にそうなのかはわたしたちには知る由もありません。唯、キリスト教は、それを教会の教えとして信じてきたということです。
大切なことは、三位一体の教えを解明し、把握しようとすることではないように思います。むしろ、イエスさまが復活してわたしたちとともにおられるということが、福音の核心だと思います。神さまというと、わたしたち日本人は、”神さん“というような、非常に漠然とした印象で、どこか遠いところにおられる方と思ってしまいます。たまたま、生まれた家がカトリックだったのであって、お稲荷さんか、天神さんか、祇園さんの氏子と同じような感覚になってしまいかねません。そうすると、キリスト教の神も、”神さん“となってしまい、イエスさま不在のキリスト教になってしまいます。
しかし、わたしたちが生涯をかけて追い求めていくのは、復活されたイエスさまとの出会いです。イエスさまは、神というだけではなく、人間となった神、即ち、わたしと同じものになり、わたしの苦しみと痛みをもろに受け、死を通して、人間に対するご自身の愛を啓示してくださった方です。それと同時に復活して、ご自身を永遠の愛であることを啓示し、永遠のいのちの根源、大宇宙、大生命と繋がる道をわたしたちに示してくださいました。その方をわたしたちは、神さまというのだと思います。わたしたちはイエスさまとの親しい関わり、交わりにおいて、いのちの根源、大慈悲、大宇宙と直結していきます。わたしたちが復活されたイエスさまと繋がることは、大いなるいのちの世界を体験することです。しかし、出発点はいつも“イエスさま”です。そこら辺が曖昧なままでは、キリスト教は何の魅力もない、道徳を説く既成の宗教に成り下がってしまいます。キリスト教というのですから、その特徴は、復活されたイエスさまとの出会い、親しい関わり、交わりにあります。三位一体の難解な教義を説明したり、理解したりする前に、復活されたイエスさまとの生き生きした出会いなくしては、何も始まらないのです。今、その必要性を、わたしたちは強く感じます。そして、その大いなるいのちの根源である神さまと人間とのダイナミックな交わりを、三位一体という教義として述べ伝えようとしたのかもしれません。