キリストの聖体の福音と勧めのことば
2021年06月06日 - サイト管理者♰主の平和
■京都みんなで捧げるミサ
キリストの聖体のミサの司式は、北村神父様です。
■6月は「京都・済州姉妹教区交流月間」
京都教区と済州教区は、2005年6月7日に姉妹教区の縁組をし、司祭・神学生・信徒間の交流が行われています。これを記念して、京都教区は毎年6月を姉妹教区交流月間としています。
京都済州姉妹教区交流の祈り「主よ、私たち京都教区と済州教区が、姉妹教区縁組を通して、韓国と日本の歴史と文化の相互理解を深め、両国を始め、アジアと世界の平和のために奉仕することができますように。」
カトリック高野教会
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キリストの聖体 福音朗読 マルコによる福音(マルコ14章12~16、22~26節)
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はキリストの聖体の祝日です。今日のマルコ福音書の箇所を読むと、イエスさまの最後の晩餐が、過越祭の第1日目の食事であったことが分かります。過越しの子羊を屠るのは、ユダヤ暦のニサン(新月)の月の14日の午後ですから、ユダヤの1日の数え方に従うと、日没からが15日になります。史実を考えると、イエスさまは、ニサンの15日に過越しの食事をして、その日のうちに逮捕され、翌日に十字架に付けられたということになります。つまり、イエスさまの死はニサンの15日となります。しかし、ヨハネ福音書によると、イエスさまの十字架は、過越祭の準備の日、つまり、過越祭のための子羊が屠られる14日となり、イエスさまこそ人類の罪を取り除く、真の生贄の子羊として屠られたことを強調しています。福音書の中のこうした記述の違いは、大きなことではありません。むしろ、イエスさまの十字架とは何か、最後の晩餐は一体何だったのかを理解していくために生じた違いであると思われます。
今日、わたしたちは、イエスさまと弟子たちの最後の晩餐の記述を読むことで、イエスさまが、教会に「感謝の祭儀」を残されたことを、記念しお祝いします。しかし、最後の晩餐について語るとき、イエスさまの生き方という前提があることを忘れてはなりません。イエスさまが、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われたのは、ミサという儀式を制定し、続けなさいと言われたのではなく、イエスさまの生き方を受け継いでいってほしいと願われたということです。確かに、感謝の祭儀は、キリストの犠牲であり、キリストの聖体の現存の秘跡です。しかし、感謝の祭儀は、そのことだけに尽きるものではありません。
わたしたちは、コロナウイルスの感染の真っただ中にいます。感染防止のために、ミサが中止されたりして、集まることもできません。今までの教会は、日曜日ごとに集まり、ミサで聖体を頂くことを中心にしてきた共同体であったように思います。はっきり言えば、日曜日に集まることで共同体になったつもりになり、ミサで聖体を頂くことで、キリスト者としての義務を果たしていると思い込んでいたのではないでしょうか。しかし、変異株などの拡大で、集まること自体がリスクとなり、ミサに参加することが難しくなっていく今、わたしたちは、教会共同体とは何か、感謝の祭儀とは何か、キリスト者とは何か、ということが問われているように思います。今までのように、日曜日に教会に行って、聖体拝領をすることで充足していた教会共同体のあり方は、このコロナ感染症によって、見直しの機会を迫られたと言っていいでしょう。いくら、主日のミサの義務を免除してもらったところで、大した意味はありません。今こそ、キリスト者のあり方、教会共同体のあり方が問われていると思います。聖体の秘跡も、その問いかけの中に置かれなければならないと思います。
今まで、わたしたちは、儀式としてのミサに参加していましたが、ミサは、“感謝の祭儀”であることを忘れていたように思います。その責任は、教会に、司祭たちにあると思います。それは、感謝の祭儀の聖体の祭儀の部分を極端に神聖化し、みことばの祭儀の部分を軽視してきた結果だと思います。わたしたちは、ミサの中で聖体は頂きますが、神のみことばは聞くことをどれだけ大切にしてきたでしょうか。「信仰は、聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まる(ロマ10:17)」と、パウロは言います。カトリック教会は、聖体の祭儀の部分にあまりにも依存し、その信仰の実質(ヘブライ11:1)である神のみことばを“聞く”という姿勢が、あまりにも弱いように思います。もちろん、長々とした説教や難しい聖書の解釈、教会の教えだけを繰り返す司祭にも問題があります。しかし、それにもまして、聖体を拝領することだけや信心業に重心をおき、神のみことばを聞くことをないがしろしてきたことは否めません。神のみことばを聞くということは、人類に対する、このわたしに対するイエスさまの愛を聞くことに他なりません。食べなければ、生きることが出来ないように、神のみことばを聞くことなしに、わたしたちは生きることは出来ません。なぜなら、神のみことばは、イエスさまが、わたしたちひとり一人をどんなに深く愛しておられるかを、わたしたちに伝えてくれるからです。そして、そのイエスさまの愛し方が、「友のためにいのちを捨てること」、十字架の死と復活であり、そのことを記念するのが感謝の祭儀なのです。わたしたちがどれだけ頭で、イエスさまの愛を分かったつもりになっていても、その深さ、長さ、広さは、わたしたちの理解をはるかに超えています。
しかし、どれだけの人が、イエスさまと一対一になって、心の中でイエスさまと親しく出会っているのかと思うと、とても心配になります。ミサに来て、聖体拝領をするかもしれません。しかし、イエスさまが、どれほどの愛のまなざしでわたしを見ておられるかを、わたしは心の目で見ているでしょうか。本の知識や神学の説明、カテキズムからではなく、心の中でイエスさまと一緒にいることを、自分のこととして体験しているでしょうか。イエスさまは、わたしたちのすべてをご存じの上で、わたしを愛しておられます。ユダが、ペトロが、自分を裏切ることを知って、その上で彼らを愛しておられました。同じように、わたしたちが罪の淵に沈んでいるときも、自分には価値がないと思うときも、誰も受け入れてくれないと苦しんでいるときも、イエスさまは、わたしをゆるし、大切に思い、受け入れてくださっています。わたしたちの出来ることは、わたしの苦しみを、罪を隠したり否定したりせず、わたしの心の中におられるイエスさまのところへ、そのまま持っていくことなのです。イエスさまは、今のままのわたしを愛してくださいます。そのイエスさまに心を閉ざさず、すべてをもっていけばよいのです。あとは、すべて、イエスさまがしてくださいます。そして、それらのことを、わたしたちに知らせてくれるのは、“神のみことば”です。イエスさまが、わたしを愛しておられることを、みことばを通して聞かないで、わたしたちは、どうしてそのことを知ることが出来たでしょうか。心を落ち着かせるために、聖体を拝領することや信心業でごまかすことではないのです。絶えまなく、イエスさまはわたしたちの心の中におられ、わたしを愛しておられるのです。その愛を、誰もわたしから奪うことは出来ません。わたしたちは、頭では、イエスさまがわたしたちを愛しておられることをよく知っているでしょう。しかし、それをわたしたちは、自分の心で受け取っているでしょうか。イエスさまの愛を、未だ、体験していない多くの人たちがいるのではないかと、とても心配になります。わたしがイエスさまの愛を体験することなしには、共同体も、教会も、聖体の秘跡もありません。まして、福音宣教などまったく不可能です。日本の教会は、その最初のところで躓いていて、制度や組織を維持することに拘っているように見えます。だから、キリスト者とされた喜びも感謝も感じられません。唯、義務としての教会に来て、ミサに参加すること、自分の救いにしか興味がないのです。
どのように、典礼的に正しいミサをするか、準備をきちんとするか、そんなことはどうでもいいことなのです。わたしたちが、イエスさまのわたしへの愛に気づき体験するとき、どこまでいっても自己中心的な己の身が知らされ、無関心とエゴイズムの闇から解放されます。そこから共同体も、イエスさまの愛を生きる共同体へと変えられ、自分の教会、小教区、教区という内向きなあり方から解放されていくのです。こうして、わたしたち教会共同体は、世界のための救いの秘跡となって、福音宣教に遣わされることが出来るのです。そのとき、ミサは、本当の意味での“感謝の祭儀”であることが分かるのでしょう。そのためには、神のみことばを聞き、神のみことばを食べなければなりません。それがあって、初めて聖体の秘跡の意味が明らかにされるのです。
わたしたちは、未だ旧約の世界にいるようなものです。神の国がすでに来ているのに、その食卓に与ることを拒むことにならないように、神のことばを何度でも聞いて、聞いて、聞くことを大切にしていきたいと思います。今、コロナ禍の中にわたしたちがいるのは、まさに今までの教会のあり方、わたしのあり方を見直しなさいと、イエスさまから与えられたときなのかもしれません。