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教会からのお知らせ

年間第11主日の福音と勧めのことば

2021年06月13日 - サイト管理者

♰主の平和

新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り

■京都みんなで捧げるミサ 
年間第11主日のミサの司式は、ウイリアム神父様です。

■6月は「京都・済州姉妹教区交流月間」です。京都教区のHPに、京都教区で奉仕してされて、今は済州に戻られた3人の神父様からのビデオメッセージが掲載されています。高野教会でも司牧してくださった懐かしい夫神父様も登場されます。ぜひご覧ください。

■高野教会の聖堂は、日中はいつでも聖体訪問をすることができます。聖堂後ろには、毎週の「聖書と典礼」が置いてあります。「勧めのことば」や「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」のコピー、「心のともしび」のリーフレットも置いてありますので、ご自由にお持ち帰りください。維持費は司祭館ポストにお入れくださいますようお願いいします。

明日、年間第11主日の福音と勧めのことばをお送りします。

カトリック高野教会

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年間第11主日 福音朗読 マルコによる福音(マルコ4章26~34節)

[そのとき、イエスは人々に言われた。]「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日は、神の国のたとえです。イエスさまが生涯をかけて、宣べ伝えようとされたのは、神の国についてでした。神の国は、天国ではないことは、皆さんご存じだと思います。神の国について、イエスさまは、はっきりと定義はされませんでした。神の国と訳されている言葉は、元々は、「神の支配」という意味です。支配ということばは、あんまりよい響きではありませんが、その当時の国家形態では、王様がいて、その威光が遍(あまね)く国中に行きわたって、王様が国民を慈しむ名君であるとき、その王国はよい国ということになります。だから、人々にとって馴染み深い“国”という言葉を使われたのでしょう。ですから、神の国というのは、神さまのみ心が、皆に遍く行きわたっていることを意味していることになります。そこでたとえられる内容は、王様はどのような方で、どのように国民のことを考えておられるのかという話になっていきます。
 しかし、神さまについて話すわけですから、元々、神さまのことをすべて理解することは不可能です。あたかも、大海の水を小さいコップに詰め込もうとするようなものです。しかも、人間の国家にたとえて話すわけですから、「神の国は○○である」と到底言い切ることは出来ません。だから、たとえ話で話さざるを得ないのです。ですから、イエスさまが、神の国のたとえを話されるときに、それが何についてのたとえであるかをよく見極めなければなりません。神の国を、人間の判断基準で理解しようとすると、イエスさまの思いを理解することはまず不可能ですから、イエスさまの視点が何であるかを知ることが、神の国のたとえについて知る第一歩となります。

 今日の神の国のたとえ話は、「成長する種」と「からし種」のたとえです。神の国は、死後に考えられている天国ではないし、将来到来するであろう楽園(パラダイス)のような世界でもありません。イエスさまによってもたらされた新しい神と人との関わり、人と人との関わり、その状態、言うなれば、“イエスさま自身といること”が、神の国であると言えるでしょう。ですから、イエスさまと出会い、イエスさまの愛に触れた人の中では、すでに神の国が始まっているのです。
 聖書の中にたくさんの癒しの物語やイエスさまとの出会いの物語がありますが、その人とイエスさまが出会うことによって、その人の中で何か新しいことが始まっていきます。遠藤周作は、イエスさまがその人の人生を横切るとか、跡をつけるという言い方をしています。わたしたちも、誰かと出会うとか、何か新しいことを知ってしまうと、もうその前の状態には戻ることが出来なくなります。同じように、イエスさまと出会ってしまうと、わたしの中でイエスさまが生きておられ、わたしを愛し続けておられることに気づいてしまうのです。いくら、自分で打ち消して、否定したとしても、もうイエスさまのことを知らないとは言えなくなります。信者である、信者でないに関係なく、その人の人生が変わり始めます。しかし、その変化は、その人がイエスさまとどれだけ親しい関わりをもっているかによって異なってきます。

 わたしたちが、イエスさまと親しい関わりをもつことは、すべての信仰生活、祈りの生活の基本です。そして、イエスさまとの親しさを生きていくためには、ミサや祈祷書の決まった祈りを唱えるだけでは充分ではありません。もちろん、ミサは最高の祈りですけれど、義務として儀式に参加しているだけなら、それだけでは充分ではありません。イエスさまとの“親しい関わり”なのですから、儀式への参加や決められた祈りをすることだけではないはずです。それなら、ファリサイ人や律法学者と同じ形式主義に陥ってしまいます。
 わたしたちは、自分の親しい人、愛している人がいれば、儀礼的にではなく、日に何度となく、自然にその人のことを想うでしょう。わたしはイエスさまを愛していますが、イエスさまのことを1分も思い出すことはありませんと言うなら、その人はイエスさまを愛しているとは言えないでしょう。このイエスさまのことを想う祈り、それが、祈りの言葉の決まったミサや祈祷書の祈り、ロザリオの祈りに対して、黙想、心の祈り(念祷)と言われているものです。皆さんも、是非1日、5分でいいので、イエスさまのことだけを想う時間をとってみてください。その時間を祈祷書の祈りとかをロザリオとかに宛てるのではなく、唯、自分の心でイエスさまのことを想って過ごす時間を作る、それが大切だと思います。愛している人と、決まった文句や難しい言葉だけでしか話をしないということがあるでしょうか。それこそ、マンネリ化したものになり、友情を育むことなど出来ません。イエスさまとわたしの二人だけの静かなときをもつ、それがイエスさまとの関わり、友情を育む第一歩です。一週間に一度の主日のミサや決まった祈りの言葉を繰り返すだけでは、イエスさまと親しくなることは難しいでしょう。人間同士でさえ、友情を育むためには、度々会ったり、自由に話したりと場所と時間が必要です。それで、あるときに、その人と無二の親友になっていることに気づきます。そして、お互いがかけがえのない存在となっていきます。今日のたとえ話は、そのようなことではないでしょうか。

 先ず、わたしがわたしの中にあるからし種の存在に気づく、つまり、わたしの心の内にイエスさまがおられることに気づき、イエスさまに意識を向けていく。小さいからし種の中に無限のいのちの可能性があるように、イエスさまとの友情も無限に深まっていく可能性があります。しかし、その友情がどれだけ、どのように深まっていくかは目には見えません。あるとき、気づくと、「ああ、こんなに絆が深まっていたのか」ということが分かるのでしょう。でもそのためには、種があるだけではだめで、種が発芽していくこと、そして、成長していくための条件が整わなければなりません。種の発芽のために、土、水、温度、酸素などが必要なように、わたしたちの中におられるイエスさまとの友情を深めていくためには、わたしたちが条件を整えなければなりません。それが、わたしたちにとっては、心の内にイエスさまが現存しておられることを意識すること、そのイエスさまとの時間と場所を取ること、そして、そのコンタクトを生涯に亘って、毎日根気強く続けていくことです。種から芽が出るかなと眺めているだけでは、芽が出ません。
 司祭、信徒に関わらず、種を持っているだけで安心して、人生が終わってしまう人がたくさんいます。また、その必要性に気づいていない人もたくさんいます。イエスさまとの友情が育っていませんから、受け売りの神学や公教要理の知識を繰り返すだけで終わってしまいます。そうなると、イエスさまのことは何も伝わりません。しかし、イエスさまとの友情が深まっていくと、それが、わたしにとってかけがえのない喜びとなりますから、誰かに心から何かを伝えたくなるのです。自分でそっと大切に種をしまっておくことなど出来ないのです。皆さんも、今日から1日5分でいいので、他のことは何もしないで、イエスさまとだけの時間をもつようにしてはいかがでしょうか。それに慣れていけば、時間を10分、20分、30分と増やしていくことが出来ます。そして、そのような可能性が、わたしたちの中にすでにあり、わたしが望めば、始めて行くことが出来るということなのです。神の国のいのちの可能性を、わたしたちは皆、もっているのです。イエスさまとの出会いの妨げになっているのは、わたしたちの失敗や罪でも弱さでもなく、わたしたちが、イエスさまに手を差し出そうとしないことです。

 その意味で、神の国はわたしたちの内にあり、すでに始まっています。イエスさまとの関わりを深めていくのは、司祭、修道者とか他の誰かがするだろうとか、教会がしてくれるだろうではありません。先ず、わたしが始めなければ始まりません。水に一石が投じられればそこから水紋が広がっていくように、周りに、共同体へと輪が広がっていきます。皆に、その輪が広まっていること、それが神の国と言えるでしょう。自分が空っぽでは、何も始まりません。それでは、今までの受け売りか自己満足の宣教、活動で終わってしまいます。その点、日本の教会はとっても弱いと思います。洗礼を受け、せっかくキリスト者になったのに、どうして、イエスさまと親しくなろうとしないのか不思議です。
 コロナ禍の中で、今、わたしたちは、神の国の建設のために、新しい一歩を踏み出すように呼びかけられているのです。その一歩が、わたしたちの内におられるイエスさまとの親しい交わりなのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

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