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教会からのお知らせ

年間第15主日の福音と勧めのことば

2021年07月11日 - サイト管理者

♰主の平和

お変わりなくお過ごしでしょうか。
高野教会では、先週からミサが再開されました。
3日(土)はCD地区、花井神父様司式のミサ、4日(日)はAB地区、ユン神父様の司式のミサが行われました。
両日とも、ミサに与る喜びと、久しぶりに皆さんにお会いできた喜びで、聖堂には笑顔があふれました。
毎月、第2日曜日と、その前日の土曜日のミサはありませんので、今週末のミサはありません。

■京都みんなで捧げるミサ 
年間第15主日のミサの司式は、ウイリアム神父様です。

■「パウロ大塚喜直ラジオトーク」 
大塚司教様の主日のお説教が、司教様のお声で聴くことができます。

■教皇庁人間開発のための部署は、7月の第2日曜日(今年は7月11日)を「船員の日」と定め、世界中の司牧者、信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけています。日本カトリック難民移住移動者委員会も、船員たちとその家族のために祈るよう皆様に呼びかけます。

カトリック高野教会

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年間第15主日 マルコによる福音(マルコ6章7~13節)

[そのとき、イエスは]十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音は、弟子たちの派遣の箇所が朗読されます。弟子たちの宣教への派遣は、イエスさまの弟子たちの招きの箇所(3:13~19)と対応しています。イエスさまは12人の弟子たちを福音宣教に派遣されますが、その前提は、まず、イエスさまが弟子たちを呼ばれたという事実です。その目的が、3章にはっきりと書かれています。「①彼らを自分のそばに置くため、②また派遣して宣教させて、③悪霊を追い出す権能をもたせるため(3:14)」と。非常に大切なことは、彼らを福音宣教のために呼ばれますが、イエスさまが、第一にされたことは、「彼らを自分のそばに置くため」、別の訳では「彼らがイエスとともにいる」ことです。福音宣教へと弟子たちを遣わすための前提は、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼んで、彼らをイエスさまとともにいさせることです。そもそも、派遣ということを考えると、必ず、今いるところから、別のところにお使いに出されるわけですが、そこには3つの動きがあります。まずは、あるところへと呼ばれ、そしてそこに留まること、そしてそこから別のところへ遣わされることです。そのあるところ、留まるところが、イエスさまご自身です。

 そして、イエスさまは二人ずつを組にして、汚れた霊に対する権能を授けて、弟子たちを福音宣教に遣わされます。しかし、それらすべてが可能になる前提は、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼ばれて、自分のそばに置かれたという事実があります。そのことなしには、派遣ということはあり得ません、というより不可能です。そして派遣するとき一人ではなく、二人であるというところにも特徴があります。ここに、イエスさまの徹底した、人間に対するものの見方が現れているように思います。人間は、わたし一人で存在するということはあり得ないということです。一個人として自立することは、社会的にも大切なことですが、人間が自立することが出来る前提は、留まるところ、相対するところ、故郷というか源があるということです。人間の実存という観点からしても、人間そのものは関係存在です。つまり、わたしたちは、必ず誰かとの関わりの中でしか、自分を見出すことは出来ないということです。わたしたちは、自分の顔を自分で見ることは出来ず、必ず他者に向けられています。平たく言えば、わたしという存在は、誰かという存在なしには存在しえないということです。親は、子というものがいなくては親になることは出来ず、弟子も、先生なくしてはあり得ないのと同じです。同様に、人間は神なくしてはあり得ず、さらに言えば神も人間なしにはあり得ないということなのです。そのことが、今日の第2朗読ではっきりと書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:3~5)」。ここに、わたしたち人間の根本的な姿、あり方が描かれています。つまり、絶対他者である神と相対する存在としての人間の姿です。それこそが、人間の召命であり、人間は究極的に神へと向かうものとして、神の似姿として、愛されるものとして造られているという意味なのです。

 ですから、イエスさまの弟子となるということは、根本的にそのこと、つまり、わたしはイエスさまの前にある存在として創られていることを体験することが必要です。これが、イエスさまが、「自分のそばに置く」と言われたことなのです。ですから、イエスさまの弟子足るもの、いわばすべての人間にとっての召命はこれであり、そのことを理解しないならば、イエスさまの弟子足り得ないということなのです。なぜならば、イエスさまの弟子であるということは、すべての人に、人間としての根本的なそのあり方を提示し、指し示すことだからです。わたしたちは、どのような生活様式を選ぼうとも、最終的にはそのことに向かっています。一方でわたしたち人間は、「独り生まれ独り死し、独り去り独り来る。身みずからこれを当くるに、代わるものあることなし(無量寿経)」とも言われるように、わたしたち人間は、根本的には一人で、誰も自分の身を代わってくれる人はいません。しかし、わたしたちは、決してひとりではありません。究極的に、イエスさまに相対するものとして存在し、イエスさまはわたしとともにあり、誰一人として取りこぼすことなく、わたしを抱き取って離さないという真実があるのです。イエスさまの弟子となるということは、このイエスさまの願いをわたしがよくよく理解する必要があります。このことを理解することなしに、如何なる人間的な慰めも、神学的な理屈も教えもあり得ません。そのためには、徹底的にイエスさまと向き合うということが必要なのです。そのことを理解した人だけが、イエスさまを証しすることが出来るということです。このように、イエスさまはいのちがけで弟子たちを育てられました。 

 京都教区は、共同宣教司牧を進めていますが、共同宣教司牧は、信徒、修道者、司祭がチームとなって現代社会において、キリストの証し人となることです。しかし、まずは、イエスさまとチームになることが前提です。イエスさまとチームになることが出来ない人が、どうして他の人とチームになることが出来るでしょうか。ですから、イエスさまは弟子たちを、まずはイエスさまと向き合うように養成されます。そして、必ず、2人ずつのチームで、弟子たちを福音宣教へと遣わされました。人間は弱いものですから、一人であれば独善、独断に走ってしまい、孤立し、倒れてしまいます。倒れないとしても、自分の信念を貫き通すか、イエスさま以外のものに依存していきます。それでは、イエスさまを証しすることにはなりません。その基本が、イエスさまのそばにいることなのです。ですから、わたしたちにとって、イエスさまとの親しい交わり、日々の祈りは、教会から課された義務とか儀式ではなくて、イエスさまとの親しい交わりを日々更新していくことに他なりません。ですから。わたしたちは祈りなくして、日々の生活はあり得ないのです。

わたしたちはイエスさまのそばにいて、イエスさまとともに生きて初めて、イエスさまの願いを理解することが出来ます。教会の掟だとか、教会の教えで決まっているからではなく、イエスさまの願いを知ること、それが「汚れた霊に対する権能を授かる」ということばの中に現されていると思います。汚れた霊とは、その人がイエスさまへと向かって行くことを妨げる働きのことです。その意味では、わたしたちは、様々な汚れた霊に憑りつかれていると言えるでしょう。それは、その人その人によって違いますが、はっきりしていることは、ありとあらゆる手段を使って、わたしたちがイエスさまへ向かうことを妨げようとするということです。イエスさまの生きていた時代には、多くの病や悪魔憑き、憎しみや怒り、貧困や差別など、ありとあらゆるものが、人々を神へと、イエスさまへと向かうのを妨げていました。イエスさまは、まずその妨げを取り除き、その妨げがあることに気づかせようとされました。その妨げが取り除かれていくとき、人々は、真にイエスさまと向き合うという人間本来のあり方へと立ち返っていくことが出来ました。現代社会は、社会構造そのものが、わたしたちがイエスさまへと向かうことを妨げています。イエスさまへ向かうということは、ある意味で、自分自身と向き合うということにもなります。現代人は、自分自身と向き合うことを避け、またそれが厳しいことなので、そのことをせず、自分の外に一時的な楽しみを見出し、何か自分にとって不都合なことが起こると、その原因を自分の外に見つけようとし犯人捜しをします。今の社会自体が、病んでいて、そのような価値観で動いていますし、その流れにわたしたちも飲み込まれてしまいます。でも、わたしたちが自分と向き合うかどうかは、わたしの気づき次第です。イエスさまと向き合うことが出来なければ、自分自身と向き合うことも出来ません。その意味で、現代においてわたしたちがイエスさまと向き合うのを妨げている第一のものは、わたし自身の捕らわれ、我執であると言えるでしょう。

 わたしたち人間の欲望は、とどまるところを知りません。今日、イエスさまは、弟子たちが宣教に出るにあたって、最低限の貧しい状態で出かけることを望まれました。それは、わたしたちが己の貧しさに気づくことを通して、イエスさまに信頼し、自分自身と向き合うことを望まれからではないでしょうか。それによって、人々にどのように関わっていくのかを伝えようとされたのだと思います。

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毎週 10:00~
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