年間第18主日の福音と勧めのことば
2021年08月01日 - サイト管理者♰主の平和
いよいよ8月、毎日厳しい暑さが続いていますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
コロナの感染者も増加していますので、コロナにも、熱中症にもくれぐれもお気をつけください。
来週は第2日曜日ですので、前日の土曜日共にミサはありません。
■京都みんなで捧げるミサ 年間第18主日のミサの司式は菅原神父様です。
■29日に帰天されました田中健一司教様の永遠の安息をお祈りください。
■京都教区カトリック正義と平和協議会主催の第14回戦争と平和写真展「沖縄・フクシマ・核(広島・長崎の記録)」が8月7日(土)、8日(日)に河原町教会ヴィリオンホールにて行われます。詳しくは教区時報8月号をご覧ください。
カトリック高野教会
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年間第18主日 福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ6章24~35節)
[五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった]群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、イエスさまがパンの増やしの奇跡をおこなわれた翌日の出来事です。パンの増やしの奇跡を見て熱狂し、イエスさまを王としようとする人々を避けて、イエスさまは、山へひとり退かれます(6:15)。人々は、またイエスさまに奇跡を行ってもらおうとして、次の日もパンを食べたところに集まります。毎日パンを増やしてくださるなら、こんな便利なことはありません。しかし、そこにイエスさまはいらっしゃいません。人々は、イエスさまを捜し回り、湖の対岸のカファルナウムでイエスさまと弟子たちを見つけます。
そこで、イエスさまは人々に言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。つまり、あなたがたが、わたしを求めているのは、自分たちが満足したからであって、わたし自身を求めているのではないことを指摘されました。ここからも、わたしたちは、感謝の祭儀をどのように捉えているかが問われていると思います。往々にして、ミサは、自分の平和、安心や自分の救いのためであるという誤った認識が当たり前となっています。コロナ禍のなかで、多くの教区からの文書で、「主日のミサの義務を免除します」という通達がなされました。それで、カトリック教会は、ミサを義務として教えていたのかということに、改めて気づかされたわけです。プロテスタント諸教派においても、主日の礼拝を守るという言い方がなされています。言葉の問題だと言ってしまえばそうかもしれませんが、ミサは、感謝の祭儀ではなかったのでしょうか。わたしたちは、誰かから強制されて、感謝することが出来るでしょうか。感謝することは、教会の教えだから、感謝しましょうというほど愚かなことはありません。感謝は、わたしたちの心から、溢れてくるものではないでしょうか。
今日の聖書の箇所に登場する群衆は、自分たちの満足にしか関心が向いていません。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘されても、そのイエスさまの指摘、ある意味では嫌味とも思えるのですが、気づく様子はありません。イエスさまは、そのような人々、これはわたしたちのことなのですが、己の身の愚かさに気づくように話をもっていこうとされますが、話は平行線のままずれていきます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」、「わたしたちが信じられるように、どんなしるしを行ってくれますか。どのようなことをしてくださいますか」、「そのパンをいつもわたしたちにください」。結局、すべてにおいて、「わたし」が中心になっています。わたしたちは何をしたらいいのか、わたしたちのために何をしてくれるのか、わたしたちにくださいますか。どこまでいっても自己関心という闇から出ることが出来ない、愚かなわたしたち人間の姿が描かれていきます。イエスさまは、「いのちのパンをわたしたちにください」と言うわたしたちに、「わたしがいのちのパンである」と言われます。あなたがたが求めているパンは、わたし自身である。今、わたしは、あなたがたとともにいるではないか。それなのに、あなたたちはこれ以上、わたしに何を望むのかと言われます。それでも、人々は気づこうとしません、というか、それほどわたしたちの無知の闇は深いということなのでしょう。
人間は基本的に、自分という立場からしかいろんなことを考えることはできません。教会でよく相手の立場に立って考えましょう、とか言います。しかし、わたしたちは、誰も相手の立場に立つこと自体出来ないのです。親が、病の我が子に代わってあげたいと思っても、代わることは出来ないのです。誰もわたしの代わりにはなれないのです。そして、わたしも誰かに代わることも出来ません。先ず、その事実を謙虚に認めることから出発しなければならないのではないでしょうか。わたしたちが、相手に対して何かが出来るという発想自体、こちら側からの一方通行になりがちで、上から目線の教会のあり方を助長するだけになってしまいます。カトリック教会は、人々に対して教える任務、治める任務、聖化する任務があるといいます。上から目線です。教会は常に上で、キリスト教を知らない人に教会の教えを広め、天国に行くことの出来ない可哀そうな人々に洗礼を授けるという発想でやってきました。イエスさまがそんなふうに、人々と関わられたことが一度でもあったでしょうか。価値観が多様化する現代で、誰がそのような集まりに入りたいと思うでしょうか。どうして、相手の立場に立って考えるとか、人々を愛の実践の対象にするようなことを平気で言うことができるのでしょうか。
しかし、そのような、わたしたち人間の弱さを心底知っておられたイエスさまは、宣教活動の初めは、旧約聖書から「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」としか、教えることが出来ませんでした。イエスさまは、人間がどこまでいっても、自己中心で、自己関心の塊であることを見抜いておられたのです。だから、「自分を愛するように」としか、お教えられなかったのです。しかし、イエスさまはその人生の終わりに、もはや「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とは教えられませんでした。イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われ、新しい掟をお与えになりました。イエスさまは、自分が人間として生き切ること、人間として最も貧しくなること、つまり十字架の死を通して神の愛を見せてくださいました。神の愛とは、決して、上から与えるような愛ではなく、また人間としてその人の身代わりになることでもありません。イエスさまは、相手の身になることは出来ないという限界を知ったその上で、その人より貧しく、小さくなることによって、人間の痛み、苦しみ、辛さをご自分のものとして理解しようとされました。それが、ある意味では、イエスさまが、わたしそのものとなられたと言ってもいいかもしれません。イエスさまは、神さまでおられますから絶対慈悲です。しかし、人間としてのイエスさまは、その人の痛み、辛さ、苦しみを知っても、その人と代わることが出来ないという痛みも知った上で、自分の生き方、そして死に方、復活を通して、そのひとり一人を大切にして、一緒にいようとされました。よく、ともに喜び、ともに苦しみ、ともに泣くという言い方がされますが、わたしたち人間は、どこまで行っても、その人の喜び、その人の苦しみ、その人の悲しみを完全に理解することは出来ないのだ、という地平に立つ謙虚さが必要なのではないでしょうか。表面的な同情やあわれみは、却って、相手を傷つけます。わたしの喜び、わたしの苦しみ、わたしの悲しみはわたしのものであって、それを誰かに簡単に理解してもらえるようなものでもないし、まして代わってもらえるものでもないのです。夫々、自分が引き受けていくしかないのです。その現実を受け入れて、ひとり一人を大切にしていくこと、それがイエスさまのなさったことです。そのことに気づかない限り、教会は唯の慈善団体で終わってしまいます。よいことをしているつもりほど、恐ろしいことはありません。
今日の箇所でイエスさまがわたしたちに問いかけられるのは、あなたがたの感謝の祭儀はどこに向っていますかということだと思います。わたしたちが、感謝の祭儀を行うとき、その方向が、自分の方に向いていることに気づいていますかということが、先ず問われます。人間は、皆自己中心です。結局のところは、自分の安心、満足、自己関心でしかありません。そのことを、自分の現実、闇として認め受け入れていますかということだと思います。その気づきがあれば、人として出発点に立つこともできます。しかし、それがないのであれば、これはかなり重症です。これを無明と言います。そのような集まりは、キリストの共同体とは言えません。ミサが、自分たちキリスト者のため、キリスト者の会食、自分が救われるための場である思っているとしたら、それはもはやキリストの共同体でなく、感謝の祭儀でもありません。ヨハネの共同体はまさに、このような問題に直面していました。感謝の祭儀は、イエスさまがわたしたちすべての人類の救いのために、ご自分のいのちを一度きり、十字架の上で捧げ尽くし、復活されたイエス・キリストという救いの出来事への感謝に他ならないのです。それなのに、わたしたちは、未だイエスさまに何を要求するというのでしょうか。