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教会からのお知らせ

年間第25主日の福音と勧めのことば

2021年09月19日 - サイト管理者

♰主の平和

 萩の花が咲き、彼岸花が咲き、秋本番へと向かっています。
 日によって気温の変化の大きい毎日です。皆さま、どうぞくれぐれもご自愛ください。

■9月1日~10月4日は、「すべてのいのちを守るための月間」です。
「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を共に捧げましょう。

■京都みんなで捧げるミサ 年間第25主日のミサの司式はウイリアム神父様です。

カトリック高野教会

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年間第25主日 福音朗読 マルコによる福音(マルコ9章30~37節)
 
 [そのとき、イエスと弟子たちは]ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の箇所は、イエスさまが2回目の受難を予告される場面が朗読されます。イエスさまのエルサレムへの旅は、フィリポ・カイザリアからガリラヤへ、ガリラヤからエルサレムへと舞台が変わっていきます。イエスさまは、エルサレムへ出発される最後のときを、ガリラヤでの宣教拠点とされたカファルナウムで過ごされます。そこで、イエスさまは根気強く弟子たちを育てていかれます。

 フィリポ・カイザリアからカファルナウムへと向かう旅の途中で、弟子たちの関心事は、イエスさまがエルサレムで政権交代を果たされたあかつきには、誰がどの役職に就くかということでした。自分がどの省庁の大臣になるかということです。一方で、イエスさまは弟子たちに、自分がエルサレムでどのような最期を迎えるかを告げられます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。弟子たちは、イエスさまが何を言われているか分かりません。というか、弟子たちの世界には、自分たちのリーダーであるイエスさまがエルサレムで失敗されるというようなことは考えられなかったのでしょう。ここにも、イエスさまと弟子たちの思いの乖離ということが描かれています。
イエスさまは、全部で3回の受難予告をされますが、いずれもその直後に弟子たちの無理解ということが描かれていきます。第1回目の直後には、ペトロへの諫言と叱責、第2回目は、弟子たちの覇権争い、第3回目は、ヤコブとヨハネの願いとなっています。イエスさまの働きへの弟子たちの無理解ということが、一貫して描かれるのがマルコ福音書の特徴でもあるわけです。先週の福音で、イエスさまは弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問うておらます。イエスとは誰かということを問い続けることが、マルコ福音書のテーマでもあり、わたしたちにとっても根本的な課題だと言えるでしょう。

 通常、人間は、自分の思った通りに物事が進むことを前提に計画し、行動します。ですから、弟子たちにとって、失敗すると分かっているエルサレムへの旅というものは、理解できないというか、分からないのは当たり前です。人間の考える幅というものは、それほど大きくありません。自分の想定できる範囲内で、すべてを収めようとします。それが収まらないときには、想定外ということになります。弟子たちは、怖くてイエスさまに尋ねられなかったと書かれていますが、それはそうだと思います。弟子たちの計画や想定にはないことを、イエスさまはしようとされているわけですから、当然理解することはできないし、聞くに聞けないというわけです。12使徒と言われる弟子たちは、そのようにまったく世俗的で凡庸な人々だったのです。彼らの関心事は、自分たちのグループ内で誰がリーダーシップを取って、力を掌握するかということでしかありません。情けないと言えばそうですが、これはわたしたち人間世界の現実でないないでしょうか。

 そのような弟子たちに対して、イエスさまはひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、「このような子どもを…」と話し始められます。抱き上げるわけですから、子どもといっても大きな子どもではなかったと思います。また、他の箇所では、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることが出来ない(10:15)」と言っておられます。当時のユダヤ教の世界では、人としての権利を認められていたのは13歳以上の男子だけで、女性、子ども、病人や障がい者、罪人とみなされる職業についている人たちの人権は認められていませんでした。その中で、子どもは無力で弱い立場におかれた人々の代表として捉えられています。子どもであるということは、自分の無力さを認め、両親が自分のすべてを満たしてくれることに信頼して、すべてを任せている存在だということでしょう。というか、そうすることしかできないほどの絶対弱者であるということです。イエスさまが、わたしたちの世界に来られた時に、小さなか弱い幼子として来られました。幼子は、誰かが受け止めて、守って養い育ててくれなければ生きていくことが出来ない、無力な存在です。そのような存在となって、イエスさまはこの世界に来られたのです。無力な幼子は、力あるものや暴力の前にはまったく抵抗することは出来ません。イエスさまは、そのようなか弱い者、リスクあるものとなられたということです。別の言葉で言えば、誰かが必ず受け止めてくれ、そして、守って養い、愛してくれることを信じて、自分の身を委ねられたということに他なりません。イエスさまは、ご自身の身を、ご自分のいのちを、人類に委ねられたということなのです。その結果、イエスさまは、人々の手に引き渡され、殺されてしまいます。
 
 過去のカトリック教会では、イエスさまは、ご自分が十字架に掛かることを小さいころから分かっておられ、それを人生の目的のように生きてこられたと教えてきました。それは、あまりにも極端な捉え方だと思います。そうではなく、イエスさまは、人として置かれているその場でしなければならない現実に、いつも誠実に向き合って来られたということだと思います。その誠実さが、イエスさまの生き方であったと言えるでしょう。これが、「幼子のようになる」、つまり、夫々のおかれている場で、その現実を受け入れていくということだと言えるでしょう。「幼子のようになる」というのは、自分をすべて任せてしまって、自分は何もしない他人任せの消極的な態度ではなくて、また、無理やりにその状況を神さまのみ旨として、自分を納得させることでもなく、自分の置かれている現実をただ受け止めて、その現実を生きるということだと言えばいいでしょう。しかも、そうしなければ生きられない、そうせざるを得ないほどの弱さ、無力さを抱えているというか、貧しく小さくされてしまっているということなのではないでしょうか。人間として、決してそのような状態がよいわけでも、肯定されるわけでもありません。しかし、そのようにさせてしまっている社会とか制度とかに対して、イエスさまは、みずからが小さな幼子、ひとりの人間として生きて、神の国の福音を告げ知らせられたのだと思います。過去の教会が教えてきた、自分が人類の罪を背負って身代わりになって、皆を天国に連れて行ってあげる的な美化され、英雄化されたスパーヒーローの贖罪者、メシア、救い主ではないということだと思います。
 また、イエスさまは苦しまれたけれど、復活があるのが分かっていたから耐えられたのだという人もいます。これも間違った考え方であると思います。何かを条件に苦しみや困難に耐えるというなら、それは条件付きの愛であり、まさに人間の駆け引きの世界の域をどこまでいっても出ていません。弟子たちが考えていたのは、その程度であり、現代のキリスト者のなかでも、イエスさまをそのような美化された栄光のキリスト像、駆け引きを入れた信仰観をもっている人たちが少なくありません。

 イエスさまは、貧しく弱い人々、小さな人々と連帯されたという言い方もよくなされますが、それであってさえも気をつけないと、上から目線となりがちです。そこからは、貧しい人々に何かをしてあげるという自我の匂いが漂ってきます。イエスさまが、そのような自我の匂いからまったく縁のない幼子となられた、つまり、イエスさまご自身が、幼子、弱く貧しいものであったということに尽きると思います。偉大な方が、謙遜ゆえに小さくなられたというのでもありません。ただイエスさま自身が貧しく弱いものであり、人々たちとともに、その生涯を歩まれたということではないでしょうか。上から貧しい人たちと連帯してあげるというのではなく、イエスさまご自身が貧しいものであったというのが歴史的真実だと思います。イエスさまは、貧しい人々と連帯するという意識さえなかったほど、小さくされたということだと思います。それが幼子ということです。これがわたしたちの信じる愛の神さまであり、この神さまであるからこそ、わたしたちの魂の底に働きかけ、絶望の淵にあるわたしたちを立ち上がらせていく力をお与えになることが出来るのだと思います。

 弟子たちのように、権威をもって上から貧しい人に手を差し伸べていくという発想とは、真逆であることが分かります。人々の願いをかなえるという形で、人々を信仰に誘導していくというのであれば、それは単なる人間の願望を果たす利益主義の宗教でしかありません。イエスさまの救いはそのようなところにはないのだということだと思います。わたしたちもイエスさまをきちんと見つめ、イエスさまに従って歩んでいきたいものです。

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