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教会からのお知らせ

年間第26主日の福音と勧めのことば

2021年09月26日 - サイト管理者

♰主の平和

金木犀の香りが漂う季節となりました。いかがお過ごしでしょsうか。
教会の司祭館の前に数年前に植えられた葡萄が実り、大きな房が垂れ下がってきました。
朝晩涼しい風が吹き、一日の気温の変化の大きい毎日です。どうぞくれぐれもご自愛ください。

■9月の最終日曜日は「世界難民移住移動者の日」で、国籍を超えて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「ともに生きる」決意を新たにする日です。
教皇メッセージ「さらに広がる“わたしたち”へと向かって」
委員会メッセージ「ひたすら『わたしたち』でありますように」

■9月1日~10月4日は、「すべてのいのちを守るための月間」です。
「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を共に捧げましょう。

京都教区時報10月号が、京都教区のホームページにアップされました。
7月に帰天された田中司教様の追悼の記事に、高野教会の写真も掲載されていますのでご覧ください。

■京都みんなで捧げるミサ 年間第26主日のミサの司式は一場神父様です。

カトリック高野教会

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福音朗読 マルコによる福音(マルコ9章38~43、45、47~48節)

 [そのとき、]ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の聖書は、イエスさまが2度目の受難予告をされたあと、弟子としてのあり方について話される箇所が朗読されていきます。そこでは、イエスさまの弟子であるものが、避けなければならないものが語られていきます。
そのひとつは、特権意識と閉鎖性です。これは、信仰をどのように捉えているかという問題にもなります。大抵、わたしたちは、イエスさまに近い人は信仰が強くて、そうでない人は信仰が弱いというふうに考えてしまいます。しかし、それはあまりにも人間的な捉え方ではないでしょうか。今日の福音では、わたしたちはイエスさまの直弟子たちなのに、あいつらはイエスさまの名前を勝手に使ってけしからんというのが、弟子たちの思いだったのでしょう。これが、教会のもつ特権意識と閉鎖性となって表れていきます。
 
 過去、カトリック教会では「教会以外に救いなし」と言われ、カトリックの洗礼を受けものだけが救われ、そうでないものは救われないと教えてきました。そのような教えが、カトリック教会特有の特権意識と閉鎖性を作り出してきました。そして、キリストの教会=カトリック教会であると考えられてきた時代が非常に長く続きました。どの宗教でもそうでしょうが、自分たちこそ選ばれたものだとか、救われるものだという選民意識とそれに伴う閉鎖性をもっています。そして、その「自分たち」の範囲を非常に限定的に、狭く設定していきます。そして、自分たちの組織を堅固にしていくために、聖典や教義を確立し、異なった考え方をするものを異端として排除してきました。こうして、自分たちを正統とし、自分たちと意を異にするもの、また自分たちに従わないものを異端として排斥してきたということが、多くの宗教の歴史でもあるわけです。

 そもそも、宗教というものは、教義や教義を説く人に対する信従ではなく、人間のもっとも深い望みに応えるものではないでしょうか。仏教学者の清沢満之は、「人心の至奥よりいずる至盛の要求のために宗教あるなり」と言っています。わたしたちは教えによって救われるのではなく、信仰によって救われます。わたしたちの信仰は、教会の教えへの恭順ではなく、人間のもっとも深い魂の渇きに応えるものなのではないでしょうか。そして、そのわたしたちのもっとも深い魂の渇きに応えるものが「愛」であり、わたしたちは、イエスさまのうちにその完全な愛を見出してきました。ですから、永遠であるイエスさまとの交わりは、無限に深められていく可能性を秘めており、これで充分ということはありません。教会の教えは、あくまでも月を指し示す指月の指であって、月そのものではありません。教会の教えを信じることによって救われるのではなく、2千年の歴史のなかで、人々の救われた歴史と体験が教えとなっていったのです。わたしたち人間の真摯な魂の叫びに応えない、また、わたしたちの魂を縛り、不自由にするような教えは、どれだけ崇高なものであっても、人間を真に生かすことにはならず、そこに救いの喜びは生じません。教会の教えは、救いのための道しるべであって、救いそのものではないからです。教会の教えが、単なるイディオロギーや主義主張になってしまえば、もはや人々の心を捕らえることはできないのはないでしょうか。

 よく、「わたしはキリスト教を信じています」という言い方をします。これは間違いではありませんが、キリスト教を信じるということは、単にキリスト教の教義や教えを信じるということではなくて、キリスト教の教義、教えを通して、イエスさまとの生き生きとした交わりをもつようになるということです。キリスト教という教義をどれだけ覚えても、それだけなら知識でしかありません。昔は公教要理を暗記することを、キリスト者になるための準備としていました。しかし、それだけなら、足らないと言わなければなりません。キリスト教の教えを学ぶのは、それによって、わたしたちがイエスさまとの生き生きとした交わりに入っていくためであり、そのイエスさまとの関わりが生きた信仰と言われます。その生きた信仰がなければ、そこに救いもなければ、喜びもないのは当然です。
「わたしどもの信仰を増してください」と願う弟子たちに対して、イエスさまは、「もしあなたがたにからし種ひと粒ほどの信仰があれば…(ルカ17:5)」と言われました。ここに、弟子たちの的外れな姿が描かれています。弟子たちは、信仰をイエスさまとの親しい交わりであるとは捉えず、あたかも物のように捉え、不可能なことが出来るようになる特殊な能力や奇跡を行うことが出来るような力として理解しています。ここに、信仰に対する根本的な誤りがあります。

 次にイエスさまの弟子であるものが避けなければならないものは、教化者意識です。カトリック教会は教導職を大切にしてきましたが、今、カトリック教会に求められているものは、神のみことばを一緒になって聞いていく共同体のセンスです。イエスさまは、「わたしを信じるこれらの小さな一人をつまずかせるものは…」と言われます。この人たちを、小さくしたのは誰でしょう。それは、教会の教化者意識です。人々をつまずかせるものは、わたしたちは真理を、教会の教えをもっている、だから、あなたがたに教えてあげる、真理を伝えてあげるという上から目線です。この姿勢が、小さいものを作り出していったのです。そこには、お互いに平座して、イエスさまのことばを一緒に聞いていこうとする姿勢が見られません。立場的に教えたり、話したりする人の方が、教えを聞いたり、話を聞いたりする人より、イエスさまとの生き生きとした交わりをもっているとでもいうのでしょうか。カトリック教会に欠けているものは、イエスさまのみことばを、キリストのうちにある兄弟姉妹として、ともに聞いていこうとする姿勢です。神のみことばは、すべての人々に委ねられています。特定の人に、聖職者に、一部のエリートに委ねられたものではありません。もし、教えるとか話をするというのであれば、それはイエスさまから受けた光を兄弟姉妹に分かち合うということに過ぎません。
 
 仏教では、人を真の信仰に導いてくれる人のことを善知識と言います。「善き友」「真の友人」の意味でもあり、聖職者を指すことばではなく、正しい真理を教え、救いに導いてくれるすべての人々や出来事を指しています。カトリック教会は、教皇を頂点とする教導職を強調しますが、抽象的な教義を繰り返すだけでは、現実の生活を生きる人々にはほとんど間に合いません。そうではなく、人生において出会うすべての人々や出来事が、自分をイエスさまとのより深い交わりへと導いてくれる善知識である、と捉えるほうが普通だと思います。長い目で見ていくと、わたしたちの人生の中での色々な人々との出会いが、わたしをイエスさまとの関係性に導いてくれ、人生の中で起こった様々な出来事、よい事も悪い事も、すべて、わたしがイエスさまとの交わりを深めるための機会、善知識であると捉え直すことができると思います。わたしたちには、イエスさまとの関わりを生きるために、実に様々な場が準備されているのです。わたしたちが人間として生まれたこと、いろいろな人との出会いと別れ、そして、いろいろな出来事はすべて、わたしがイエスさまと出会うためのメッセージとなり得るのだということだと思います。そして、上下の別なく、神のみことばをともに聞き、分かち合っていく、そのような場と仲間が与えられていること、それが教会共同体の真の存在意義だと思います。しかし、そのように捉えることは実は大変難しく、分かりやすい教えに従っている方がはるかに楽でしょう。でも、それでは、わたしたちは、生き生きとしたイエスさまとの関係性を生きることは難しいと言わざるを得ません。

 イエスさまの弟子であるということは、イエスさまの生き様をわたしたちのうちに体現していくことです。イエスさまは、これらの小さな一人、幼子として生きられました。イエスさまの生き様は、現実の実態にそぐわなわい難しい教えを繰り返すことではなく、まして、イエスさまの時代にエルサレムのゴミ捨て場であったゲヘンナを地獄として教え、人々を脅しで宗教に誘導することではなかったことは明らかです。先ず、教会自身がもっている上から目線の態度を改め、わたしたちひとり一人が、人を人として大切にされていくこと、その視点に立って、低身からやり直していくことが、今もっとも必要なことではないでしょうか。

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毎週 10:00~
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