information

教会からのお知らせ

年間第31主日の福音と勧めのことば

2021年10月31日 - サイト管理者

♰主の平和

川端通りの桜の葉が色づいてきました。お変わりございませんか。
寒さに向かいますので、どうぞ体調を崩されないようお気をつけください。

■北白川教会にて、洛北ブロックの堅信式が大塚司教様の司式で行われます。
高野教会から受堅される中学生お二人の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈りください。

■今月のミサは以下の通りです。いずれも10時からです。
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
30日㊏ AB地区
31日㊐ CD地区

■11月のミサの予定
6日㊏ CD地区
7日㊐ AB地区
13日㊏、14日㊐ 第2週はミサはありません。
20日㊏ AB地区
21日㊐ CD地区
27日㊏ CD地区
28日㊐ AB地区

■京都みんなで捧げるミサ 年間第30主日のミサの司式は北村神父様です。

京都教区時報11月号が京都教区のホームページに掲載されています。
冊子は聖堂の後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。

■11月は死者の月です。死者の月のお祈りを依頼される方は、聖堂後ろの封筒に必要事項をお書きの上、献金とともに11月のミサの時にお持ちください。

■京都教区 2021年「いのち・平和・環境の日」の集い on ZOOM
~エコロジーから人権まで~
日時:2021年11月13日㊏午前10~11時
講話:奥村 豊 師(京都教区司祭)
対象:関心のある方どなたでもご参加いただけます
方式:オンライン(ZOOM)
申込み:下のリンク先(Googleフォーム)からお申込みください。
https://forms.gle/c5k7QvQVK4uUhAWd8
申込締切:11月10日(カトリック新聞にも掲載されています)

カトリック高野教会

************************************

福音朗読 マルコによる福音(マルコ12章28b~34節)

 [そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。]「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

************************************

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の箇所は、エルサレムの神殿で、当時の宗教的指導者である律法学者との対話にあたる箇所です。そこで、モーセの律法のなかで何が一番大切かということが問題になります。というのは、当時、モーセの律法は細かく細分された613の項目に分かれていました。それで、律法学者の間では、どれが一番大切な掟かという論争がなされていたようです。そこで、今日の直前の復活論争について、イエスさまが立派な答えをなさったのを見て、律法学者が真摯に律法について尋ねるということになっています。それに対して、イエスさまは、ユダヤ教の基本的な信仰告白である「シェマ」の最初の部分(申6:4~5)とレビ記(19:18)から、神への愛と隣人愛の掟をお答えになります。それに対して、律法学者は適当な受け答えをして、「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。

 キリスト教のなかで、神への愛と隣人愛は、キリスト教の教えであるかのように言われ、またそれを実践するように教えられてきました。しかし、今日の箇所を読む限り、イエスさまはモーセの律法は、神への愛と隣人愛に要約されると言われたのであって、これがわたしの掟であると言われたわけではありません。イエスさまご自身が、この2つを律法の要約であると認めた律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われましたが、遠くないということは近くもない、まして神の国に入れると言われたわけではありません。しかし、キリスト教のなかで、この2つの掟が、キリスト教の掟であるとか、黄金律であると言ったことが平気で言われています。このような、初歩的な間違いがどうして起こったのでしょうか。

 イエスさまは、律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたイスラエルの人たちに、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」天の父の完全性を示し、敵への愛を説かれたところに、律法に見られない新しさがありました(マタイ5:43~48)。そもそも人間は、自分を中心にして、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人などという区別、差別を作って生きています。それに対してイエスさまは、善人と悪人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人といった区別、差別をしない一切平等を説かれました。しかし、わたしたち人間は、この神さまの本質である愛の完全性を受け入れることが非常に難しいのです。

 イエスさまが、誰も区別、差別されないということは、簡単にいうと、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人も、わたしを愛しておられるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、自分が努力をして、一生懸命働いて、熱心に教会活動をして、真面目にミサに行っている。だから、イエスさまに受け入れられ愛されると思っている。しかし、イエスさまは、努力もせず、頑張りもせず、だらしなく、堕落しているとわたしが軽蔑しているあの人も、わたしを愛されるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、救われたいとか、天国に行きたいと思っているかもしれません。しかし、わたしが考えている天国は、わたしの敵や罪人、堕落しただらしない人がいないところが天国だと思っているのです。つまり、わたしが救われたいと思うとき、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人は救ってほしいと思っていないということなのです。そのような人たちが天国に入るのは、わたしはゆるせないし、嫌なのです。それが、どこまでもいっても自分本位である、わたしという人間の惨めな本性なのです。

 しかし、イエスさまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」と言われるのです。それが、神さまの完全性です。失敗しないとか完璧な人みたいに、上を目指すという意味ではないのです。わたしたちは、そのようなイエスさまのいつくしみ、愛の完全性を理解できずに、背を向けて生きることしかできないというのが現実なのです。わたしたちが、たとえ隣人を愛すると言っても、「敵を愛しなさい」と言われたイエスさまにことばを聞いて、わたしがその隣人の境界、枠を少しばかり広げることでもやっとなのです。わたしたちの言う隣人愛は、わたしの考えている境界を広げていくだけであって、それはどこまでいっても神さまの愛の完全性とは質的に異なったものでしかありません。

 神さまは、そのことを分かっておられましたから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」としか教えられなかったわけです。わたしたち人間が愛するとき、自分を抜きにして愛することは不可能だからです。仏教の世界では、仏の愛を大慈悲と言いますが、人間の愛は小慈小悲と言われます。人間はどこまでいっても、自分というものを抜きにして愛することはできない存在であるということなのです。そのことを知らずして、隣人愛を実践しましょうと平気で言うことがいかにおこがましいかということなのです。自分が隣人愛を実践していると思っていることこそが、実は自分を愛していることに他ならないからです。ですから、神への愛と隣人愛を律法の中心であると答えた律法学者に対して、イエスさまは「あなたは神の国から遠くない」、でも「近くもない」と言われたのです。つまり、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人というような区別、差別を作っているわたし自身の枠が破られない限り、神の国には入れないと言われたのです。では、どうすればそのようなことが可能になるのでしょうか。
 
 そのためには、わたしたちが、イエスさまの何ものをも区別しないその愛にまず触れること、イエスさまに聞くことであると言わざるを得ないと思います。どこまでいっても愛せない人間の弱さというか、人間の性に涙し、救いの計画を起こし、人間となってこの世界に来られたイエスさまが、先ずわたしたちを愛してくださいました。しかし、それは単に一方的に、無償でわたしたち人類をあわれみ、愛するだけでは終わらず、愛することが出来ない人間が愛するものとなるまで変容するところまで及びます。これこそ、愛は愛されることによってしか完成しないということを知った上での、神さまの壮大な救いのご計画であると言えるでしょう。それは、わたしたちがイエスさまを愛することによってではなく、先ずイエスさまが、わたしたちを愛するという働きによってなされたものなのです。

 わたしたちは、わたしがイエスさまを信じることによって救われると思っているかもしれません。しかし、それだけなら、わたしがイエスさまを信じるというわたしの心を確固たるものとしようとしただけであり、そのようなわたしの心はいろいろな状況のなかで、いつどのように変わってしまうか分かりません。わたしの信念を強くするとか、わたしの疑いがなくなることが信仰ではないのです。信仰がそれだけなら、結局わたしの心の問題にすぎません。そうではなく、イエスさまがわたしを愛されることで、わたしのなかに今度はわたしがイエスさまを愛したいという願いを呼び起こし、わたしのうちで愛してくださることによって、愛は愛されて完成されるのです。だから、わたしを愛されるのはイエスさまであり、わたしのなかでイエスさまを愛するようにしてくださるのもイエスさまであるということなのです。それが、可能になるのが、最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、十字架の上で自分のいのちまで与え尽くされるイエスさまの愛、聖霊がわたしたちのうちの恵みとして注がれることによってのみ、ということなのです。

 信仰は、この愛を信じることに他なりません。ですから信仰はわたしの心の持ち方ではなく、信仰自体がイエスさまの恵みなのです。わたしたち人間ができることは何もないのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と言って、わたしたちにご自分の愛を与え、新しい掟を与えてくださった、そのイエスさまの愛がわたしに届いていることを、わたしは信じさせて頂くことしかないのです。そして、信じさせて頂けるとしたら、それもイエスさまの愛の働きに他ならないのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:00~
毎週 10:00~
毎週 10:00~

ミサは一般の方もご自由にご参加頂けます。はじめての方はご案内いたしますのでお声がけください。