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教会からのお知らせ

待降節第2主日の福音と勧めのことば

2021年12月05日 - サイト管理者

♰主の平和

待降節第2主日となり、朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。
左京区北部の花背では、初雪が降ったそうですね。皆さまもどうぞご自愛ください。

■ミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
12月
4日㊏ AB地区 
5日㊐ CD地区
11日㊏、12日㊐ 第2週はミサはありません。
18日㊏ CD地区 
19日㊐ AB地区
25日㊏ 主の降誕日中のミサ AB地区
26日㊐ 主の降誕日中のミサ CD地区

■京都みんなで捧げるミサ 待降節第2主日のミサの司式は北村神父様です。

京都教区中学生会 2021年冬の集い「顔見たい、集まろ!」が行われます。中学生にお声かけをお願いします。
日時:2021年12月29日(水)14:00 場所:カトリック西陣教会

■12月の第1日曜日は「宣教地召命促進の日・献金」です。お祈りと献金にご協力ください。

カトリック高野教会

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ3章1~6節)

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。
  谷はすべて埋められ、
  山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、
  でこぼこの道は平らになり、
  人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日は、イエスさまの宣教活動に先立つ洗礼者ヨハネの活動を述べます。ルカは、その際に“とき”ということを強調します。「皇帝ティベリウス治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったとき…」と述べる通りです。それは、おそらくイエス・キリストという出来事が、いわゆる伝説や架空上のおとぎ話ではなく、人類の歴史のなかで実際に起こった出来事であることを強調しようとしたのだと思います。

 わたしたちは、普通は過去・現在・未来という時間の流れのなかに生きているというふうに考えています。過去という時間の流れがあって、また、未来へと時間が流れていくというように考えます。だから、よきにつけわるきにつけ、わたしたちは過去の行いによって今の自分があり、その自分が過去を背負って将来を生きていくのだというふうに考えます。勧善懲悪のような考え方は、過去によいことをすれば将来よい報いがあり、悪いことをすれば将来罰がくだるというものであり、どこまでも時間の流れを前提とした人間的発想になります。そして、実際の人間社会も宗教もそのように時間というものをとらえています。しかし、現代の物理学の発達によって言われていることは、時間は初めがあって終わりがあるというように、過去・現在・未来というような幅をもったときの連続として捉えるのではなく、時間というものはあくまでも、人間が天体の運動法則等によって作り出したひとつの物差しにすぎないと考えるのが主流となっています。ですから、人間が考えている過去・現在・未来というのは人間の作り出した物差し、決め事であって、宇宙そのものは、そのような時間や空間の規定の枠のなかにはないというように捉えていきます。ということは、わたしたち自身も宇宙の一部ですから、わたしは時空のなかにいると思っていますが、実はそれは人間の決めた約束事であり、必ずしも真実(リアル)であるという確証は何もないということになります。つまり、今わたしが生きていると思っている時空の世界は、仮想現実であるかもしれないということになります。それでは、一体何が真実、リアルなのでしょうか。

 そのような観点から、改めて今日の箇所を読み直してみると、まったく別の読み方をしていくことができると思います。皇帝ティベリウス治世の第15年のとき、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えたとき、預言者イザヤを通して「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言われたときは、世界史的には紀元27年か28年にあたると特定されています。それによって、イエス・キリストという出来事を人間の歴史的事実として位置づけることができます。しかし、まったく別の観点から読み直していくと、その“とき”というのは、世界史としては紀元27年か28年にあたる過去のある一点をいうのではなく、人が皆、神の救いを仰ぎ見つつあるそのとき、イエス・キリストによって救いが実現しつつあるとき、わたしたちが“今、救われつつあるとき”、つまり永遠における今であるその“とき”であるということが見えてきます。それが、神さまは永遠であるということでしょう。

 わたしは、イエスさまといついつに出会ったという言い方が聖書のなかでもされており、わたしたちもそのように考えています。確かに、ヨハネ福音書では最初の弟子がイエスさまと出会ったのが「午後4時ごろ(ヨハネ1:39)」であったとか、パウロのようにダマスコ近くで(使徒9:2)イエスさまと強烈な形で出会ったというような体験があることも確かです。しかし、もっと大切なことは、今生きているわたしたちがイエスさまと出会うことができるのは、過去のあるときでもなく、まだ来ていない将来のあるときでもなく、わたしが生きている今この“とき”でしかないということです。救いというものは、救われたという過去の出来事や思い出ではなく、救われるであろうという未来の約束事でもありません。時間というものが、人間が作り出したひとつの物差しであるとすれば、救われたという過去の記憶のなかにある出来事も、救われるであろうという未来の予測も、人間の心のなかで作り出したものにすぎないということになります。そして、それが人間の作り出したものである限り、真実であるという保証はどこにもないということになります。

 救いは神さまの行為であり、神さまにしかできないことです。それを人間は、自分は救われたとして記憶につなぎ留めたり、教会に保証を求めたりしてきました。しかし、自分の心を拠り所として生きている人間にとって、その状態が長続きすることはあり得ません。それは、最初の弟子たちもパウロも同じだったでしょう。あの出来事は一体何だったんだろうと疑いの心を起こし、生涯自問自答し続けたに違いありません。だから教会では、繰り返して感謝の祭儀が行われるのでしょう。そして、わたしたちは過去に犯した過ちや罪に対して恐れおののき、将来訪れるであろう苦しみや罰に怯えながら人生を過ごすのです。教会がそのような教え方をしてきたということも否めません。しかし、もしわたしたちの人生がそれだけであれば、人間は人間が作り出した時間の奴隷にすぎません。そうではなく、神さまが永遠で、生きておられるということは、わたしたちがイエスさまと出会い救われるのは、わたしが生きている今、救われつつある永遠の今においては他にあり得ないということではないでしょうか。確実なことは、やれ救われた、救われないという不確実な人間の思惑が入り込まない、しかしわたしたちが現実に生きている今というこの“とき”だけこそが、神さまとわたしとの出会いのために付与された純粋経験のための“とき”であるということができるでしょう。

 主の降誕に向かってわたしたちは黙想会に参加したり、12月25日にイエスさまが来られると信じて馬小屋を整えたりして、心を浄めてイエスさまを迎えようと準備します。それ自体はよいことなのですが、考えてみると、確実なものなど何もないわたしたちが何と愚かなことをしているのでしょうか。イエスさまがわたしたちを訪れ、わたしたちのうちにイエスさまがお生まれになるのは、二千年前のベトレヘムの馬小屋ではないのです。まして、今年の12月25日でもないのです。イエスさまは、今生きているわたしのうちに、今お生まれになるのです。イエスさまがお生まれになるのは、“今というとき”をおいて他にはないのです。

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ミサの時間

毎週 10:00~
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