主の降誕の福音と勧めのことば
2021年12月25日 - サイト管理者主のご降誕のお喜びを申し上げます。
幼子イエスさまの祝福が、皆さまとご家族の上に豊かにありますように。
■本日と明日のクリスマスミサの中で、2人の小学生が初聖体を受けられます。おめでとうございます!
■大塚司教様のクリスマスメッセージです。
■京都みんなで捧げるミサ 主の降誕のミサの司式は北村神父様です。
■京都教区時報1月号が発行されました。司教様の年頭書簡が掲載されていますので、聖堂後ろに置いてあります冊子をお持ち帰りの上、お読みください。
年頭書簡のテーマは「『コロナ時代を生きる信仰』Ⅱ キリスト者の終活を始めよう」です。
■ミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
高野教会の現在の最大収容人数は50人です。
12月
25日㊏ 主の降誕日中のミサ AB地区
26日㊐ 主の降誕日中のミサ CD地区
1月
1日㊏ 主の公現 CD地区
2日㊐ 主の公現 AB地区
8日㊏、9日㊐ 主の洗礼のミサはありません。
15日㊏ 年間第2主日 AB地区
16日㊐ 年間第2主日 CD地区
22日㊏ 年間第3主日 CD地区
23日㊐ 年間第3主日 AB地区
29日㊏ 年間第4主日 AB地区
30日㊐ 年間第4主日 CD地区
主の降誕(夜半のミサ)の福音と勧めのことばをお送りします。
カトリック高野教会
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ2章1~14節)
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国で行われていた冬至の祭りをキリスト教化したのが由来です。元来、古代教父たちはイエスの誕生ということに重きを置いていませんでした。むしろ降誕祭は、キリスト教が広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ太陽神の冬至の祭りをキリスト教化することで、民衆の支持を得るという政治的な意図で始まったものです。それが今では、キリスト教の2大祭日となっていますが、主の復活の視点から見なければ、主の降誕は意味のないものになってしまいます。
そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。マルコ福音書には、マリアの息子だという記述以外、イエスさまの誕生についての一切の記述はありません。そこから、初代教会はイエスさまの出自について、関心をもっていなかったことが分かります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスさまへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのは人間的に分かる気がします。しかし、教会が祝ってきたのは、イエスさまの誕生というより、人間の救いのために神が人となった受肉の神秘であるということです。ですから、降誕祭はイエスさまの誕生日を祝うのではなく、受肉の神秘を祝うことが中心です。神が人間となることにより、人間が神の子とされる不可思議な“聖なる交換”を記念するのです。それでは、その中身がどのようなものであるかを見ていきましょう。
わたしたちは毎年祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエスさま、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかで、もっとも弱い立場におかれ、貧しく堕落しているもの象徴でした。
そもそも、イエスさまがベトレヘムで生まれたということ自体、後代の教会の伝承です。ヨゼフとマリアは人口調査のために実家の村に帰ったわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋にさえ泊まれませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では家族や一族をとっても大切にします。ですから、普通実家に帰ったら、しかも妻が妊娠しているというのであれば、一族上げて歓迎するはずです。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親戚は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。わたしたちは、マリアの妊娠は天使のお告げであることを知っていますが、当時の人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であることに気づいていたのでしょう。だから、律法に背いた堕落した罪人を受けいれれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受けいれようとしなかったのだということでしょう。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、先ずきちんと受け止めましょう。
わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれます。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。家畜の餌皿に寝かされたということです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、望まれない、喜ばれない誕生であったということです。ヨゼフとマリアにしても、血の繋がりがない子の誕生を心から喜んだかどうか分かりません。聖書は淡々と出来事を描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。それは、真実を見落としてしまいかねません。ベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げていきます。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。でも、その糞まみれの現実のなかに来られたのがイエスさまだということなのです。ですからこそ、イエスさまはすべての人の救い主であるのです。
イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住していくと農耕生活に移行していき、そのなかで羊飼いをしている人たちは、本当に貧しい人々か、罪人と呼ばれる人たちでした。そもそも律法を守るという観点からしても、羊飼いたちは移動して仕事をしていきますから、安息日を守れません。ですから、常習的に律法を破らざるを得ませんから、そのような仕事をする人たちは罪人とみなされていました。ですから、生きていくためにどうしてもそのような仕事をしなければならない理由や貧しさを抱えているか、エルサレムなどの都市部で犯罪を犯し、堕ちるところまで堕ちた人たちがつく仕事でもあったわけです。そして、彼らは生きていくことで罪を犯さざるを得なかった人たちだったわけです。そのような人たちとは、誰も交際しませんでした。
教会は正義と平和については問題視し、声をあげます。そして、わたしたちも不正義や被害者のことについては考えますが、加害者となった人たちや生きることで罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちというのは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちであったということなのです。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてきたわけではありません。わたしたちが、今、キリスト者で教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。勘違いしないようにしましょう。
親鸞が阿弥陀如来の本願は、「りょうし(猟師、漁師)、商人、さまざまのもの(農民、武士など)は、みな、石、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と言われた、救いから除外された人々のためであると言います。「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」は、仏教の殺生戒を守れない罪人とみなされていました。しかし、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」の働きなくして、わたしたちは生きていけません。わたしたち人間は皆、お互いに繋がっています。そこで言われる「われら」は、まさにこの“わたし”のことであることを自覚しておられました。神さまであるイエスさまは、まさに堕落し罪人であるわたしのために、不義の子、罪の子、怒りの子としてこの世界に来られました。それが、クリスマスの本当の意味です。自分だけ清くなってイエスさまを迎えようと思っている人のところに、イエスさまは来ることはできません。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞でしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、この罪人であるわたしひとりのために、わたしのなかにお生まれになるのです。それが、真のクリスマスの意味であり、イエスさまの復活の意味でもあるのです。