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教会からのお知らせ

年間第5主日の福音と勧めのことば

2022年02月06日 - サイト管理者

♰主の平和

暦の上では春となりましたが、強い寒気の影響で厳しい寒さとなるそうです。本当の春が待ち遠しいですね。どうぞご自愛ください。
2月3日は「福者ユスト高山右近殉教者」、本日5日は「日本26聖人殉教者」の記念日です。コロナ禍3年目、殉教者を想い、祈りを捧げたいと思います。

■京都みんなで捧げるミサ 年間第5主日のミサの司式は北村神父様です。

■毎年2月11日のルルドの聖母の祝日は「世界病者の日」です。

■2022年大塚司教様の年頭書簡を読んで、分かち合い募集(福音宣教企画室)

■2021年度 京都司教区オンライン聖書講座 DVD 頒布の案内(聖書委員会)

■京都司教区本部事務局より訃報
グアダルペ宣教会のホセ・モンロイ・ペレイラ神父様が、メキシコで 2022 年 1 月 31日に帰天されました。83歳でした。長らく京都教区でも奉仕してくださいました。神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ5章1~11節)

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「彼らはすべてを捨ててイエスに従った」

今日は最初の弟子の召命について描かれています。共観福音書にはいずれも最初の弟子の召命について報告がありますが、ルカの特徴はその出来事の内面を描いているということです。今回は、それを見ていきたいと思います。

わたしたちは召命というと、すべてを捨ててイエスさまに従うことだと思いがちですが、そうではありません。聖書ではイエスさまが彼らを見て、イエスさまが彼らをお呼びになって、それに彼らが応える出来事として描かれています。そこには、わたしたちが何かをする前に先立ってイエスさまの存在というものがあります。それはわたしたちの夫々の人生にも起こっていることではないでしょうか。例えばわたしたちが何か新しいことを始めようとするとき、自分が選択して決断したと思っています。しかしそうではなく、新しい生き方がわたしを選んでわたしに呼びかけた、わたしを突き動かしたという体験がないでしょうか。それはわたしたちの力や努力、計画やはからいを超えた大きなものがわたしたちに働き、その大きなものに突き動かされるというような体験です。それをわたしたちは召命という言葉で説明しています。そして聖書をよく読んでいくと、召命の主体はわたしたち人間が応えるとか決断するということではなく、真理そのものがわたしを呼ぶ、イエスさまがわたしを呼ばれるということなのだということが見えてきます。

過去の教会のなかでは、召命というと司祭・修道者になることだと狭く理解されてきました。しかしそれはひとつの形態であって、大切なことは、わたしたちが夫々何か大きなものに呼ばれていることに気づかされ、その懐深くに入り込んでいくことであるといえるでしょう。そこには、まずわたしたちは自分の力や予測をはるかに超えた大きな存在、力、働きがあって、それが自分に働きかけてくるという体験をすることになります。ですから人が百人いれば百通りの召命があるということだと思います。

そこでわたしたちは、自分の力をまったく超えた大きな働きを体験するわけですが、同時に自分とは何かという自己認識も深めていくことにもなっていきます。それがペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」ということばに現れています。ペトロが何か罪を犯したわけではありません。しかしペトロはイエスさまのことばを通して、漁師としての自分のキャリアもプライドも崩されるような体験をします。そこで、彼は自分を超えたはるかに大きなものと出会っているという体験をしました。「降参です」とか、「参りました」といって頭が下がるという体験でしょうか。その体験は、必ずしもわたしたちにとって心地よいものではないことがしばしばです。しかしこうした体験を通して、わたしたちは心のやわらかさが養われていきます。このような体験をしたことのない人は、人への優しさや愛情をもつこと、人の痛みや弱さに共感していくことはとても難しいように思います。そして人を傷つけます。イエスさまは武骨なペトロに、人としての優しさとかやわらかさをもってほしいと思われたのではないでしょうか。

そして、そのような自分の限界、貧しさを体験することを通して、イエスさまとの関わりのさらなる深みへと招かれていきます。召命はイエスさまから呼ばれ、それに応えることだけでは終わりません。さらにイエスさまの懐深く入っていかなければなりません。自分の内なる魂の深みに降りていくことだともいえるでしょう。キリスト者であれば、自分は洗礼を受けたとか、司祭になるために神学校に入ったとか、司祭になったとか、修道院に入ったとか、結婚生活に入ったとか、わたしたちはどこからどのように入るのかという形に囚われがちですが、大切なのは形ではありません。どこからどのように入ったとしても、いつまでも入り口でうろうろしていないということが大切なのです。いつまでも自我をくすぶらせ、イエスさまの懐深くに入り込むことなく、イエスさまとの関わりを深めることをないがしろにして、自分の立場や生活に囚われて、入り口をちょろちょろするようになってはならないということなのです。かといって潔く退く勇気もありません。罪を犯さなくなるとか、倒れなくなるということが問題なのではなく、いついかなるときにおいても前進しなくなるということなのです。多くの信徒・司祭・修道者がイエスさまとの関わりをないがしろにして、組織の運営管理、維持や形式的な信仰生活にほとんどのエネルギーを裂き、それをもってキリスト者として生きていると錯覚していることが何と多いことでしょうか。これこそがまさに召命への不誠実ということなのです。

ナザレの人々の驚きは真理に背を向けることになりましたが、最初の弟子たちの驚きは真理に対して開かれていくものとなりました。どうしてでしょうか。それはイエスさまへの驚きを通して、自己認識を深め、彼らがイエスさまの関わりの深みへと招き入れられたということだと思います。イエスさまと出会うことは、わたしたちにとって驚きとなり、わたしたちに自分の真の姿を見せつけます。イエスさまに頭を下げて「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」といい、「主よ、罪人であるわたしをあわれんでください」というしかない我が身を見せつけられますが、イエスさまは「恐れることはない。わたしに従いなさい」といって、わたしたちをご自身とのさらなる関わりの深みへと招き入れてくださいます。罪人でしかない己を知るという出発点にわたしたちが立ち、そこから一生涯をかけて、日々イエスさまとさらなる懐深くにまでわたしたちが入り込んでいくこと、ここにわたしたちの召命、信仰生活があるのです。

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毎週 10:00~
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