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教会からのお知らせ

年間第8主日の福音と勧めのことば

2022年02月27日 - サイト管理者

♰主の平和

主の平和がウクライナの人々の上に一日も早く訪れますよう、心を込めて祈ります。

■3月2日の灰の水曜日より四旬節に入ります。

■ウクライナ:教皇「3月2日の灰の水曜日、平和のための断食を」

四旬節教皇メッセージ

■京都みんなで捧げるミサ 年間第8主日のミサ 司式:北村神父様

教区時報3月号

■声明文 ウクライナへのロシア軍軍事侵攻の中止を!―日本カトリック正義と平和協議会

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ6章39~45節)

 [そのとき、イエスは弟子たちに]たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。
 悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「口からあふれ出ることを語る」

今日の福音では、自己認識という難しい問題を取り上げています。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と書かれています。また「悪い実を結ぶよい木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」とも言われます。人の行動の結果から、原因が分かるということが言われているのでしょう。しかしこの一連の並行箇所はマルコにはなく、解釈の難しい箇所です。

感謝の祭儀のなかで、わたしたちは「思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。それは、思い、ことば、行いという夫々の罪があるということだけではなく、思い、ことば、行いは繋がっているということも言っているのだと思います。先ずわたしたちの心のなかの様々な思いがあって、それがことばとして結集し、それが行動となって表れるということなのでしょう。例えば、わたしのなかに、ある人への怒りの感情があって、それがことばとなって現れ、それが態度となって表れるということでしょう。このことは良い実を結ぶたとえからよく理解することができます。しかし、ことはそんなに簡単なことでもないように思われます。

わたしたちは、「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」、「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」ということを体験します。つまり、心のなかで考えていることとまったく違うことをやってしまったり、思ってもいないことばが口から出てきたりします。どうも、必ずしも良いものを入れた心の倉から良いものが出てくる、悪いものを入れた倉から悪いものが出てくるという単純な話でもないように思われます。これはどういうことでしょうか。そもそも、わたしたちは自分の心というものを知ることができるのでしょうか。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」とも言われます。これは、相手のことはよく分かっても、自分を正しく知るということは難しいということでしょう。わたしたちは、相手のことを分かったつもりになりますが、そもそも自分の心の何が分かっているというのでしょうか。わたしたちは、怒ってはいけないと思っていても腹が立ってきますし、憎んではいけないと思っていても憎しみの心が湧き上がってきます。わたしの心がわたしのものであれば、わたしは100%、自分の心をコントロールできるはずです。しかし、わたしたちは自分の心を自分の思うようにすることはできません。わたし自身が自分のことをよく分からないのに、どうして目から丸太を取り除くことなどができるのでしょうか。修行を積んだら、自分の目のなかの丸太に気づいて取り除いて、先生のようになれるとでもいうのでしょうか。

パウロは「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(ロマ7:18~19)」といい、わたしたちの内なる罪、悪ということを問題にしています。ですから、わたしたちは「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と単純に言えるものではないと思います。わたしたちの心は、刻一刻と変化していきます。外づらや体裁では、怒ってはいけないと分かっていても怒りの心がわいてくる。憎んではいけないと教えられても憎しみの心がわいてくる。信じなければいけないと言われて、信じているような顔をしていても、内側は疑いの嵐が吹きまくっています。わたしたちは、自分でどんなに努めても、自分の心を常に正しく保つことなどできないのです。わたしたちは、自分の意志では、自分の心をどうすることも出来ないのです。

パウロは「わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるのでしょう(7:24)」と、うめきの叫びをあげます。わたしたちは、どんなに努力しても頑張っても、自分の目のなかの丸太、第2朗読で言われる「死の棘」を自分で取り除くことなどできないのです。しかし、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7:25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまだけが、わたしたちを救ってくださる、イエスさまだけがわたしの目から丸太を、死の棘を取り除いてくださる、イエスさまだけがわたしを信じるものにしてくださるということでしょう。「十分に修行を積めば」と訳されていることばも、「神があなたを完全にする」という意味であり、人間が修行を積むのではなく、神さまが人間へ働きかけることを表しているのに他なりません。

先週の日曜日の福音で、神さまは「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」あわれみ深い方であることが知らされました。わたしたちはそのような神さまの完全性、無条件のあわれみに触れるときに、自分ではどうすることもできない惨めな自分の姿が見えてきます。しかしそのわたしを否定したり咎めたりするのではなく、大きな慈しみで包まれているわたし自身の姿を同時に発見します。わたしたちは自分の欠点や罪を正面から指摘されたら腹が立つでしょう。しかしそのことを一切咎めず、包み込んでくれるものの前では、ただ涙するしかない惨めなわたしを認めることができるのではないでしょうか。

イエスさまの眼差し、イエスさまの光だけが真実のわたしたちを知らせてくれます。その真実のわたしは、わたしが思っていたような自分ではなく、むしろ惨めすぎるわたしかもしれません。しかし、イエスさまのわたしたちに注がれるいつくしみの眼差しのもとでは、もはや罪の大小も欠点も問題にされません。わたしを貫き、暖かく包み込むイエスさまの眼差し、愛の火が、おが屑や丸太の区別なく激しく焼き尽くし、ひとつの同じ炎となって燃え上がるのです。

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