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教会からのお知らせ

四旬節第2主日の福音と勧めのことば

2022年03月13日 - サイト管理者

♰主の平和

春を感じられる日差しに喜びを感じつつ、同じ時代に生きているにもかかわらず、戦禍からの非難を余儀なくされている方々に思いをはせ、共に祈りを捧げます。

■京都みんなで捧げるミサ 四旬節第2主日のミサの司式は北村神父様です。

■京都司教区本部事務局からのお知らせです。
2022年京都司教区 人事異動のお知らせ 
2022年京都司教区 共同宣教司牧担当者一覧
2022年京都司教区 委員会担当司祭一覧

■京都司教区「中学生会春の集い」のお知らせです。

カリタスジャパン「四旬節 愛の献金」の呼びかけが届いています。聖堂内に置いてある専用封筒か、適当な封筒に「四旬節愛の献金」と書いていただき、司祭館のポストに入れてください。四旬節中受け付けています。集まった献金は、京都教区を通してカリタスジャパンに送金されます。

■京都司教区本部事務局より〈カリタスジャパン ウクライナ緊急募金〉のお願い
皆様もご存じのように、2月24日から始まったロシアによるウクライナへの大規模軍事侵攻により、これまでに600人近い市民が犠牲となり、100万人に上る人々が隣国に避難していると言われています。皆様には、先ず、この状況になかにあるすべての人々、また戦火でなくなられた方のためにお祈りをお願いいたします。 また、一日も早い平和的な終結のためにもお祈りをお願いいたします。
カリタスジャパンが、ウクライナの状況と、ウクライナにおけるカリタスの活動を考慮し、〈ウクライナ危機人道支援〉緊急募金の受付を決定しました。寄せられた募金は、ウクライナと、その周辺国で行われる人道支援活動のために活用されます。下記のURLからカリタスジャパンのHPへ移動し、詳細をご覧の上、カリタスジャパンの口座へ、直接ご支援ください。よろしくお願いいたします。
https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ9章28b~36節)

[そのとき、]イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わった」

今日の福音のなかで、イエスさまは栄光に輝く姿を弟子たちに現されます。栄光とは、一般には人が成功・勝利などによって、他人から得る好意的な評価のことを意味します。弟子たちにとってのイエスさまの栄光は、エルサレムで勝利を治め、ユダヤ人国民から好ましい評価を得て、英雄として褒めたたえられることです。しかし、栄光に輝くイエスさまがモーセとエリヤと話し合っておられたことは、イエスさまがエルサレムで遂げようとしている“最期”についてでした。エルサレムでの最期とは、イエスさまが全人類のためのご自分のいのちを十字架上で与え、新しいいのちへと移っていかれることです。

ここで使われている最期ということばは、旧約聖書の出エジプトを表す“エクソドス”、「脱出」ということばです。このエクソドスということばは、過越しとも訳されています。つまり、ある状態から別の新しい状態への移行を現しています。イスラエルの民にとっては、奴隷状態のエジプトから約束の地へ脱出していくことであり、それが神の力によってなされる出エジプト、過越しという出来事です。復活祭はパスカといわれ、このエジプトからの脱出を記念する過越祭に由来し、イエスさまが全人類の救いのために、十字架の死を通して、新しいいのちに移っていかれたことを記念します。

そして、この過越し、脱出には必ず痛みを伴います。それは、ある種類の生き物が成長していくときに脱皮をしていくのと似ています。脱皮はある種の動物にみられ、自分の体が成長していくにつれて、その外皮がまとまって剥がれることをいいます。つまり、より成長するために、いのちが開花していくために、今までの古い自分を脱ぎ捨てていくことです。これは節足動物、爬虫類、両生類だけに見られる現象というより、すべての生きとし生けるものは、自分のなかで絶えず死と再生を繰り返しています。わたしたち人間も、ほぼ1年ですべての細胞が入れ替わると言われています。古くなった細胞は、排泄物として外に出されます。つまり、生きるということは、絶えまない死と再生を繰り返していくことに他なりません。そして人間にとって、その一番大きな脱出が死という苦しみを伴った現象です。

大自然のいのちの営みを現わす現象に、「倒木更新」というものがあります。原生林では木が切られることがありませんから、何百年も生き続けた巨木はやがて枯れて倒れていきます。そうすると枯れた木は次第に腐敗してゆき、その木の表面に苔類が生え始めます。そこに木の種子が落ちて、木の子どもたちが育ち始めます。倒れた木の上は日当たりもよく、雑菌もいませんから、枯れた木を養分としてすくすくと育っていきます。これが自然界の倒木更新といわれるものです。

「親は子のために倒れる」、そして年月が経ち子どもたちは大きくなり、その養分となって親は消滅していきます。しかし親は子のいのちとなって生き続けます。親は子のために倒れ、子は親を忘れない。大自然はそのいのちを繋いでいくために、古いものは新しいものに場を譲っていくということです。これを人間以外のいのちは、自然なこととしておこなっています。イエスさまのエルサレムでの脱出は、まさにこのような大きないのちの営みそのものだったのではないでしょうか。そして、イエスさまの栄光は、自分が注目されて光輝くものとなることではなく、「子のために親は倒れる」こと、それこそがイエスさまの栄光であり、もっとも神さまであるイエスさまらしい生き方であったのでしょう。

しかし、人類はその歴史が始まって以来、自分の手に力、権力、富、名声を掌握することが、人間の幸福、生きる意味、栄光であると錯覚して生きてきました。その結果が、今日もたらされている戦争であり、富の不均衡、民族間の格差、差別、自然破壊なのです。そのあわれな人類に、イエスさまはいのちをかけて、大自然としてのいのちの当たり前の姿を示してくださったのです。

イエスさまの生き方は特別なものではありません。わたしたち生きとし生けるものが本質的にもっているものなのです。すべてのいのちは生かされるためにあり、そのいのちは次のいのちに自分の場を譲っていくことで、そのいのちを永遠に繋いでいくのです。いのちそのものは永遠なのです。植物、動物はそのことを当たり前のこととしてやっています。その当たり前のことができないのが人間なのです。イエスさまから見れば、人間は他の動物や植物が当たり前としておこなっていることができない、畜生以下のあわれな生き物、最低の霊長類なのです。

人間にだけに魂があるなどと誰が教えたのでしょうか。そのあわれな人間に、すべてのいのちとの共生を思い出させて、いのち本来のあり方をご自分の生き様、死に様をもって示し、わたしたちをいのち本来の姿に呼び戻してくださる、それがイエスさまの過越し、エクソドスなのです。

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