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教会からのお知らせ

四旬節第3主日の福音と勧めのことば

2022年03月20日 - サイト管理者

♰主の平和

気温の変化の大きい日が続いています。お変わりございませんか。
まん延防止等重点措置が解除されるとはいえ、なかなか感染者数は減少傾向とはなりません。どうぞくれぐれもご自愛ください。
世界の平和を心を合わせて祈りつつ。

■京都府に出されていたまん延防止等重点措置が3月21日で解除されるため、洛北ブロックでは、27日(日)の主日からミサが再開されます。
高野教会では26日(土)のミサから再開することになりました。
今まで通り、感染防止対策を十分にとって、リスクを避け、地区別の分散ミサを行います。
地区別ミサは、今回より地区の組み合わせを変更して、AC地区とBD地区に分かれますのでご確認ください。
聖週間は昨年同様、簡単な儀式で行われます。

■3月、4月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)のみ18時からで、地区に関係なく、どなたでも与ることができます。

3月
26日㊏ AC地区 四旬節第4主日のミサ 10:00
27日㊐ BD地区 四旬節第4主日    10:00

4月
2日㊏  BD地区 四旬節第5主日のミサ 10:00
3日㊐  AC地区 四旬節第5主日    10:00
9日㊏  AC地区 受難の主日のミサ   10:00
10日㊐ BD地区 受難の主日      10:00
14日㊍ どなたでも(地区別なし)主の晩さんの夕べのミサ 18:00    
16日㊏ BD地区 復活の主日のミサ   10:00
17日㊐ AC地区 復活の主日      10:00
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日    10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

■京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■ミサに与る場合の注意事項
・マスクの着用をお願いします。
・聖堂入口で用紙にお名前と電話番号をご記入後、検温、手指消毒をお願いします。
・入祭、閉祭はオルガン演奏のみとし、聖歌は歌いません。
・飛沫感染を防ぐために、ミサの受け答えは小声でお願いします。
・答唱詩編、アレルヤ唱は、全体では歌わず、代表者が歌います。
・平和の挨拶は「主の平和」と言わず、礼のみにしてください。
・聖体拝領時、前列の方から、中央通路に置いてあるアルコール消毒器で、手指のアルコール消毒をしてください。アルコールで消毒後、ウィルス消滅に20秒はかかるため、よく揉みこんでください。密にならないように気をつけ、慌てず、必ず間隔を空けて並んで拝領してください。授与者は「キリストのからだ」は言いません。拝領時の「アーメン」も言わないでください。
・ミサ後、座席の横に置いてある消毒液とペーパータオルで、ご自分の席のまわりの消毒作業をして、ゴミは聖堂後ろのごみ箱に入れてください。
・日曜日の地区が掃除当番です。密にならないように気をつけながら、短時間で掃除が終わるようご協力ください。
・使用された「聖書と典礼」や、聖堂内で手に取られたチラシはお持ち帰りください。
・維持費や献金は、聖堂後ろの献金箱にお入れください。

■京都みんなで捧げるミサ 四旬節第3主日のミサの司式は菅原神父様です。

2022年四旬節教皇メッセージ(中央協HP 2.25)

2022年四旬節「愛の献金」キャンペーン(Caritas Japan HP 2.24)

「ウクライナ危機人道支援」緊急募金(Caritas Japan HP 3.4)

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ13章1~9節)

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、
罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる

今日の箇所は、ルカだけに見られる固有の箇所となっています。そこでは、二つの出来事が述べられています。ひとつはピラトが、ユダヤ人が生贄を捧げるために集まっていたとき、ガリラヤ人の血を混ぜた、つまりガリラヤ人を見せしめのために血祭りに上げたこと、もうひとつは、シロアムの塔の改修工事中に塔が壊れて犠牲者が出たという話です。いずれも歴史的に確認されてはいません。

ただ、当時の一般的なユダヤ教の考え方で、この世に起こる災害で被災する人々は、災難を受けなかった人より罪深かったからだと考えるのが一般的でした。それで、災難を受けなかった人は、自分はあの人たちのように罪人でなくてよかったと安心するのが一般的であったようです。それはユダヤ教に限らず、原因があるからそれに等しい結果があると考える因果応報、自業自得という発想が人間のなかにあるのではないでしょうか。人間は皆弱いので、自分に災難が降りかかってくると、神仏の罰が当たったのだとか、先祖の報いが自分に及んでいるのだと考えます。それは、人間は誰しも完璧ではないし、人には言えないようなことを抱えていたり、思ったりやったりしているからでしょう。わたしたちは誰も、イエスさまの前に大手を振って立つことができるものはいません。それでは因果応報、自業自得という考え方をどのように捉えていけばいいのでしょうか。

今日の福音では、イエスさまは「彼らがそのような災難に遭ったのは、他の人々よりも罪深い者であったと思うのか」と問われています。そして、「決してそうではない」といい、短絡的な因果応報という考え方は否定されました。それは、わたしたちひとり一人への悔い改めへの呼びかけであると言われました。しかし、現実問題として、この地上で起こるいろいろな出来事をどのように考えていけばいいのでしょうか。

この宇宙の生きとし生けるものは、すべてお互いに関わり合って生きています。通常、わたしたちはわたしの自分の小さな言動や何かが、よもや世界の動きに何ら関係することはないと思って生きています。地球の裏側で起こっているウクライナの戦争を、今でこそSNSやメディアの進化により、わたしたちはリアルタイムで情報を手に入れることができます。しかし、100年、200年前であれば、そのことを知る由もなく、かなり時間が経ってから知る、あるいは他人事で終わっていたかもしれません。その一方で、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがありますが、それは、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶたとえとして言われています。現在の力学系で、バタフライ効果ということばがあります。蝶々の小さな羽ばたき、そのわずかな変化が、その後の生態系が大きく異なってしまうほど大きな影響を及ぼす、予想もしていなかったような大きな出来事につながるということを意味しています。まさに現代版の「風が吹けば桶屋が儲かる」です。実はこの力学の考えは、この世界、この宇宙は決して夫々のものがバラバラに無関係に存在しているのではなく、お互いが関わり合って、呼応し合って、響き合って存在している関係存在であることを言おうとしているのだと思います。

そのことを、パウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅰコリ12:27)」といいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つひとつの部分をおかれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょうか…目が手に向かって『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』とも言えません…むしろ各部分が互いに配慮し合っています。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(同」12:18~26)」と言いました。人間の体は夫々の部分によって成り立っていますが、部分だけでは人間ではありません。体のたとえを用いて、人間はあらゆる関わりのうちに成り立っている関係存在であるということが言われているのです。このことは、わたしたち人間のことだけでなく、全人類、自然、地球、全宇宙にまで、その関わりは及んでいきます。この世界、この宇宙はわたしと無関係ではなく、わたしもこの世界、この宇宙と無関係ではありません。夫々が関わり合って、響き合って、わたしを、この世界を、宇宙を、いのちを形作っているのです。

古来、日本人は「わたしとこの世界はひとつである」というような世界観、生命観を当たり前のこととしてもっていました。しかし、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの文化は、細かく分け、細分化することによって世界を、生命を理解しようとしてきました。まさに、パウロがいう反対のこと、「目が手に向かって『お前はいらない』と言い、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』と言ってきたのだ」と言えるでしょう。つまり、わたしと他者、世界は別々で関係ないと言ってきたのです。その行きついた先が戦争、分断、分裂、区別でした。

今こそ、わたしたちは聖書のことばに立ち返って、本来のいのちがもっているあり方に立ち帰るように呼びかけられているのではないでしょうか。イエスさまの「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というのは、脅しではなく、わたしたちが本来のいのちのあり方へと回帰するようにとの呼びかけに他ならないのです。そして、そのいのちの感覚にわたしたちが立ち帰るとき、この世界に起こるすべてのことは、もはや他人事ではなく自分事となっていくのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。