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教会からのお知らせ

四旬節第4主日の福音と勧めのことば

2022年03月27日 - サイト管理者

♰主の平和

京都でも桜の開花宣言が出され、高野教会のお庭の桜もつぼみが開きかけています。
本日からミサが再開されます。
ミサの注意事項を再度お読みになり、感染防止対策の上、お越しください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■3月、4月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)のみ18時からで、地区に関係なく、どなたでも与ることができます。

3月
26日㊏ AC地区 四旬節第4主日のミサ 10:00
27日㊐ BD地区 四旬節第4主日    10:00

4月
2日㊏  BD地区 四旬節第5主日のミサ 10:00
3日㊐  AC地区 四旬節第5主日    10:00
9日㊏  AC地区 受難の主日のミサ   10:00
10日㊐ BD地区 受難の主日      10:00
14日㊍ どなたでも(地区別なし)主の晩さんの夕べのミサ 18:00    
16日㊏ BD地区 復活の主日のミサ   10:00
17日㊐ AC地区 復活の主日      10:00
23日㊏ AC地区 復活節第2主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 復活節第2主日    10:00
30日㊏ BD地区 復活節第3主日のミサ 10:00

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

■京都みんなで捧げるミサ 四旬節第4主日のミサの司式は北村神父様です。

京都教区時報4月号が発行されました。印刷物は聖堂の後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。

■京都司教区聖書委員会よりご案内です。
オンライン聖書講座が今年も行われます。お申込みの上、多数ご受講ください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ15章1~3、11~32節)

 [そのとき、]徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った

今日は「放蕩息子」のたとえ話です。ルカの15章は、「見失った羊」のたとえ、「なくした銀貨」のたとえ、そして「放蕩息子」のたとえの3つで構成されています。聖書のなかに出てくる多くのたとえ話は、すべて神の国のたとえです。つまり、神さまがどのような方であるかを、たとえでわたしたちに伝えようとしています。ですから、たとえ話の主語は常に神さま、イエスさまです。人間、わたしたちではありません。ですから、「見失った羊」の主語は羊飼い、「なくした銀貨」の主語は女となります。「放蕩息子」のたとえというタイトルは誰がつけたのか分かりませんが、観点が息子の方に偏っています。正しくは、「見失った息子のたとえ」となるのが正解だと言えます。より主語を補って正確に言うなら、「見失った息子を待ついつくしみ深い父親」のたとえとなります。いつも、わたしたちは間違います。迷子になった羊、どこかにいった銀貨、放蕩した息子を主語にして考えます。確かに、羊が迷子になっていること、銀貨がなくなったこと、息子が放蕩のかぎりを尽くしていることは問題といえば、問題かもしれません。しかし、そこに焦点があるのではありません。

羊が勝手に出て行ったのか、迷子になったのかもしれません。しかし、羊飼いは自分が見失ったといいます。銀貨が勝手に出て行くわけはありませんから、女は自分が銀貨をなくしたといいます。放蕩のかぎりを尽くしたのは息子ですが、お父さんは息子を咎めたり、怒ったりしません。息子は自分のせいで、こうなってしまったとお父さんが自分の責任を感じているのです。わたしたちはいつもまちがって、勝手に出て行った羊が悪い、なくなった銀貨が悪い、出て行った息子が悪いと考えます。そして、放蕩のかぎりを尽くして、我に立ち帰った息子が反省して帰ってきたから、お父さんは寛大に息子を受け入れたと考えます。そして、それを受け入れようとしなかった兄と自分を比べて、自分は兄だ、いや弟だと議論します。何という愚かな、何という勘違いでしょう。これでは、イエスさまの福音のメッセージでは伝わりません。話を人間のレベルにまで引き下げて、「過ちては改むるに憚ることなかれ」と教えた論語と同じです。これなら儒教であって、キリスト教ではないのです。どこからこのような勘違いが生まれたのでしょうか。

わたしたちは、神の国のたとえで、誰が主語であるかをいつも見誤ります。主語はいつも、神さま、イエスさまです。わたしたち人間ではないのです。実は、なくした銀貨のたとえが一番よく、そのことを伝えてくれているのかもしれません。羊や人間は動物ですから、動き回ります。しかし、銀貨は動けませんから、なくしたのは銀貨の責任ではなく、女の責任です。だから、女は家中をくまなく掃いて、念を入れて探し回ります。探し回るのは、神さま、イエスさまなのです。放蕩息子の話は気をつけて読まないと、放蕩のかぎりを尽くした息子が、あるときに我に帰って自分の意志で帰ってきた。それを、お父さんは大きな心で受け入れたのだと説明して、神さまのゆるしのために人間の悔い改めの必要性を説く、カトリック教会の誤った教えとして解釈してしまいます。しかし、放蕩息子の話は、ゆるしの条件として罪人の悔い改めの大切さを説く話しではないのです。イエスさまは、そんなことを伝えたいのではないのです。教会もそんなことは教えていません。ゆるしは、いつも一方的な神さまの恵みです。

銀貨のたとえを思い出しましょう。銀貨は自分では動けません。だから、女は家中を掃いて銀貨を探し回ります。銀貨は自分を探し回って、見つけてもらうのを待つしかないのです。わたしたち人間は、まさに泥沼に足を獲られて沈んでいくしかない銀貨なのです。迷子になって帰って来られない羊なのです。放蕩のかぎりを尽くしていることに、自分の力で気づいて帰って来られるなら、問題はないでしょう。しかし、わたしたちはそれ程、まともではないのです。もしそうなら、これほど世界は大変なことにはなっていないでしょう。

そうではなく、如何なるわたしであろうとも、見捨てたまわず救い取って捨てないイエスさまがすでにおられるということなのです。もし、わたしたちがお父さんの家に立ち帰ろうと思えるとしたら、悔い改めることができるとしたら、それは、わたしたちがお父さんの子であるということがすでに与えられているからです。子であるということは、お父さんあっての存在です。ですから、子は本能的にお父さんのもとに帰ろうとします。しかし、それは、お父さんが親として、先ず子に関わっているからです。もし、わたしたちが悔い改められるとしたら、それはわたしたちが悔い改める先に、父子という関わりが与えられているからに他なりません。

お父さんが兄に「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」と言ったように、お父さんは、弟にも兄にも、すでに親として関わっておられたのです。わたしたちがイエスさまのもとを迷い出ているときも、イエスさまはすでにわたしたちとともにおられ、ともに彷徨っておられたのです。だから、わたしたちはイエスさまが共におられることに気づき、悔い改めることができるのです。間違っても、自分の力で悔い改められるなどと思ってはいけません。そんな心を起こさせるようなものは、わたしのなかに微塵もないのです。もし、悔い改めるということがあるとすれば、それは先ずイエスさまがわたしたちを探し求めておられるからであって、わたしの努力や糾明によるのではありません。

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ミサの時間

毎週 10:00~
毎週 10:00~
毎週 10:00~

ミサは一般の方もご自由にご参加頂けます。はじめての方はご案内いたしますのでお声がけください。