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教会からのお知らせ

復活節第3主日の福音と勧めのことば

2022年05月01日 - サイト管理者

♰主の平和

復活の喜びのうちに、大型連休に入りましたが、まだまだコロナの感染も収まらず、大きな事故も起こり、気持ちの晴れない連休となりました。
5月は伝統的に聖母月と言われます。心を合わせ、聖母マリアに世界の平和のために取り次ぎを祈り続けたいと思います。

■京都みんなで捧げるミサ https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

復活節第3主日のミサ https://youtu.be/CQBiGDFax5Q

■京都教区時報5月号が教区のHPに掲載されました。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/534.pdf
冊子は聖堂後ろに置いてありますので、お持ち帰りください。

■5月のミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

5月
1日㊐ AC地区 復活節第3主日     10:00
7日㊏ 復活節第4主日のミサ なし
8日㊐ 復活節第4主日のミサ なし
14日㊏ AC地区 復活節第5主日のミサ  10:00
15日㊐ BD地区 復活節第5主日のミサ 10:00
21日㊏ BD地区 復活節第6主日のミサ 10:00
22日㊐ AC地区 復活節第6主日のミサ 10:00
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ     10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ    10:00

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ21章1~19節、または1~14節)

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 [食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。]

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまの復活についての記述は、大きく2つの伝承があるとされています。ひとつは、エルサレムでの空の墓の伝承で、イエスさまに付き従った婦人たちが日曜日にイエスさまを葬った墓に行くと、墓は空であったというものです。もうひとつはガリラヤに逃げ帰った弟子たちが、復活されたイエスさまと出会ったというものです。しかし、いずれの物語も、イエスさまの復活そのものについては何も語っていません。言われていることは、エルサレムでイエスさまを葬った墓が空であったということ、そして、弟子たちが、ガリラヤで共に生活し、十字架上で亡くなったナザレのイエスと同一人物に何らかの仕方でリアルに出会ったということです。それは、単に個人的な啓示(マリアさまのご出現のようなもの)ではなく、弟子たちの生き方そのものを根本的に変えてしまうような体験であったということです。弱虫で自分勝手であった弟子たちは、今までとは打って変わって、ナザレのイエスは救い主であると大胆に宣言し、自分のいのちをかけてまで宣教するようになったということです。一体何があったのでしょうか。

イエスさまに付き従った婦人たちは、十字架刑、十字架からの降下、埋葬までイエスさまを見届けます。それに対して、弟子たちは、イエスさまが逮捕された時点で保身に走り、エルサレムの隠れ家に潜み、日を移さずに、彼らの活動の拠点であったガリラヤに逃げ帰ってしまったということだと思います。そして、彼らはイエスさまに従う前の仕事に戻っていたようです。ペトロの「わたしは漁に行く」と言う言葉は、わたしは漁師に戻るといったニュアンスのようです。それに対して、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行く」というのです。彼らの気持ちは、失敗に終わったエルサレムでの計画に対して整理をして、元の仕事に戻るという感じだったのではないでしょうか。そして彼らが戻ったガリラヤの日常生活の中で、彼らの生き方を根底から変革させるような何かを体験したということ、それが弟子たちの復活体験と言われるものです。

イエスさまの復活については、いろいろと説明がされています。例えば、わたしたちが自分の親しい人が亡くなった後も、その人が自分の想い出の中に生きているというものです。しかし、このような想い出は、時間の経緯とともに薄れてゆきます。あるいは、弟子たちがキリスト教という新興宗教を作るために、イエスの復活という信条を作り上げたというものです。しかし、ひとつの宗教団体を作り上げるために、そのような信条を作り上げたとしても、自分のいのちまでかけたというのは少々無理があります。そもそも、イエスさまの十字架と死までは、人間の側の歴史的事実として証明することができるのでしょうが、イエスさまの復活ということ自体、人間の側から証明できるようなものは何もないということだと思います。

それでは何が言えるかというと、イエスさまの弟子たちは、自分たちは復活したイエスさまと出会ったと証言して、そのことをいのちをかけてまで証ししたということ、そしてそれは多くの人々の共感を呼び起こし、ひとつのグループを形成していったということです。人々が何に共感したのかというと、イエスさまによって説かれた新しい神の国の生き方、この世界は愛といのちによって計らわれていて、その愛といのちは暴力や死よりも強いという非常に具体的な教えと実践を伴った共体験であったと思います。

ところで、わたしたちは、この世界のすべてを2つのものに分けて考えます。生と死、愛と憎しみ、死と復活、内と外などです。弟子たちが体験したものは、単なる憎しみよりも愛の力が強いとか、生は必ず死に打ち勝つとか、愛は暴力に必ず勝つというような二項対立に基づく理想論ではなかったと思います。表現としては、愛が憎しみに打ち勝つとか、いのちが死に勝利するというような言い方しかできないのかもしれません。しかし弟子たちは、憎しみと愛、死と生、死と復活というような区別そのものを超えた世界、そのような分別、差別、区分がなくなった絶対平等の世界に触れたということではないかと思います。言葉で説明する限り、どうしてもこのような言い方しかできませんが、パウロが言う「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤ3:28)」という世界だと言えると思います。ここで、「イエスにおいて一つ」と言われる“ひとつ”は、数字の1ではなくて、また0か1か、いわゆる有るか無いでもなく、そのような分別を超えた世界を指していると言えます。いわゆる仏教で言われる空、真如と言われることであると思います。弟子たちは、復活されたイエスさまと出会うことによって、生と死という二元論でもなく、かといって生だけとなった一元論でもない、それが破れた世界を体験したのではないでしょうか。それが彼らの生き方を根本的に変革しました。但し、このような発想はキリスト教の中にも、西洋哲学の中にもないので、区別がないとか差別がない、キリストにおいてひとつだとしか表現できなかったのではなないかと思います。あえて言うならエデンの状態と言ってもいいかもしれません。

結局、人間は二元論を一元論(一神教)に近づけていくこと、つまり汚れたものから清くなること、罪人から聖なる者となることとしてしか理解できず、それは人間の力や努力を優先する倫理観が主流となった発想になっていきます。そして、所詮人間の力は個人差や限界がありますので、頑張れた人はイエスさまに近づけた人、頑張れなかった人は近づけないダメな人みたいな理解にいつまでも留まってしまいます。そうすると、わたしたちは、どこまでいっても本当の意味でイエスさまの福音、復活という出来事に触れないで終わってしまいます。今日、イエスさまの復活を記念するにあたって、わたしたちの思いや考えをはるかに超えた、イエスさまのもっと大きなものに触れさせていただく恵みを願いしましょう。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。