復活節第5主日の福音と勧めのことば
2022年05月15日 - サイト管理者♰主の平和
5月の青空はどこへやら、気温の変化の大きい日が続いています。体調を崩しやすい季節です。皆さま、どうぞご自愛ください。
ともにいてくださる神よ、あなたはキリストを死者の中からよみがえらせ、限りないいつくしみを示してくださいました。わたしたちが互いに愛し合うことによって、愛そのものである神をあかしする者となりますように。(復活節第5主日の集会祈願より)
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
復活節第5主日のミサ
https://youtu.be/B6snKrwUNvQ
■5月ミサ予定
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
5月
15日㊐ BD地区 復活節第5主日のミサ 10:00
21日㊏ BD地区 復活節第6主日のミサ 10:00
22日㊐ AC地区 復活節第6主日のミサ 10:00
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ 10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ 10:00
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ13章31~33a、34~35節)
さて、ユダが[晩さんの広間から]出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、ユダが、イエスさまから「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われ、パン切れを受け取り、出て行った直後の場面が描かれています。「夜であった」と書かれています。ユダが晩さんの家を出て行ったとき、すでに夜になっていたのでしょう。確かに辺りは、夜の闇に包まれていたのだと思いますが、しかし闇は単なる夜の闇を指すだけではないと思います。それは、ユダ自身が入っていった自分ではどうすることも出来ない泥沼、心の闇を表していたのではないでしょうか。
ユダは、ペトロたちのように単純な人間ではなかったと思います。ある意味で、イエスさまのしようとしておられたことを、誰よりも理解していた人間だったかもしれません。だからこそ、イエスさまのしょうとされることに一体何の意味があるのか、人々の苦しみを引き受けようとしておられること、それで人々の苦しみがなくなるわけではないのにと、ユダ自身は問い続けていたのかもしれません。ユダは、心からイエスさまを愛していたのでしょう。しかし、理解しようとしても誰も入っていけないイエスさまの崇高さが、イエスさまを銀30枚で裏切らせ、ユダ自身も自分自身を裏切って、自分の心の闇へと降りていったのかもしれません。そして実は、この闇にイエスさまもユダとともに一緒に入っていかれたのではないでしょうか。
イエスさまが一度、その人の人生を横切られたなら、その人はイエスさまのことを忘れられなくなると遠藤周作は言っています。その理由を、イエスさまがその人の中で、その人を愛し続けるからだと言います。つまり、その人が誰であるか、何をしたか、何であるかは問題ではないということなのです。イエスさまが、その人を愛しておられるということだけが大切で、真実なのです。裏切ったものが、裏切られたものを一番理解している、また裏切られたものが、裏切らざるを得なかったものの本当の痛みを知っているということではないでしょうか。
こうして、ユダがイエスさまを裏切ろうと晩さんの広間から出て行ったとき、イエスさまは栄光を受けたと言われます。言うならば、イエスさまはもっともイエスさまらしくなられたということなのです。そのような状況のなかで、イエスさまは弟子たちに新しい掟をお与えになるのです。イエスさまは、「ご自分のときが来たことを悟り、世にいる弟子を愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」とあります。その愛はもはや、「自分自身を愛するように、隣人を愛する」愛ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われる愛であり、その愛にもとづいて、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスさまは言われるのです。このような壮絶な愛が一体あるでしょうか。
不思議なことですが、このユダの裏切りということがなければ、イエスさまはご自分の栄光、つまりご自身の愛を人類に完全に示すことは出来なかった、十字架も復活もなかったわけで、キリスト教というものも成立しなかったわけです。もちろん裏切りということを擁護しているのではなく、それが悪であることには変わりはありません。河合隼雄がどこかで、「裏切りによってしか、距離がとれないときがある」と言っています。多くの場合は、裏切ったものも裏切られたものも、大きな傷を負って夫々破滅してしまいかねません。しかし、キリスト教は、このような深い痛みと後悔、深い傷口から血を流しながら成立してきたものであるということが事実です。弟子たちは皆、大なり小なりユダであったわけです。ですから、弟子たちの側からイエスさまとの関わりを回復することはまったく不可能であったわけです。その回復不可能かと思われる関わりを、イエスさまの側から一方的に回復してくださったことが、イエスさまの復活という出来事なのではないでしょうか。そのイエスさまであるからこそ、恵みとして新しい掟、新しい関わり、愛の絆をわたしたちに与えることがお出来になるのです。わたしたちの惨めさの淵は、神のいつくしみの淵を呼び寄せるのだということなのでしょう。実に、ユダはわたしだったのです。
このような人間の心の深みに、深淵に入っていくことが、わたしたちが生きるということなのではないでしょうか。イエスさまがわたしたちを愛したと言われたとき、そのときからイエスさまは、わたしのすべて一切をゆるしておられたのです。わたしたちが誰であるかなかったか、何をしたかしなかったか、何であったかなかったかが問題ではなく、ただ一切を何があろうとゆるしておられたのです。このことに気づいたとき、わたしたちは新しく歩き始めることができるのでしょう。これを恵みというのです。