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教会からのお知らせ

復活節第6主日の福音と勧めのことば

2022年05月22日 - サイト管理者

♰主の平和

この季節、「野ばらの匂う ルルドの岩屋~♪」とカトリック聖歌を口ずさんでしまいます。
高野教会にお庭にも、いろいろなお花が咲いています。いつもお世話をしてくださる方々に感謝です。

主イエスの父である神よ、あなたはみことばと聖霊によってわたしたちの内に来られ、いつもともにいてくださいます。ここに集うわたしたちの心をキリストの平和と喜びで満たしてください。(復活節第6主日の集会祈願より)

■5月・6月ミサ予定 
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

5月
14日㊏ AC地区 復活節第5主日のミサ  10:00
15日㊐ BD地区 復活節第5主日のミサ 10:00
21日㊏ BD地区 復活節第6主日のミサ 10:00
22日㊐ AC地区 復活節第6主日のミサ 10:00
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ     10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ    10:00
6月
4日㊏ BD地区 聖霊降臨の主日のミサ  10:00 
5日㊐ AC地区 聖霊降臨の主日のミサ  10:00
11日㊏ ミサなし
12日㊐ ミサなし
18日㊏ AC地区 キリストの聖体のミサ 10:00
19日㊐ BD地区 キリストの聖体のミサ 10:00
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ  10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ  10:00

■5月22日は「世界広報の日」です。聖堂後ろに広報の日の献金封筒がありますので、ご協力ください。今年のテーマは「心の耳で聴く」です。教皇様のメッセージをお読みください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/06/24464/

■5月22日から29日は「ラウダート・シ週間」です。今年のテーマは「ともに耳を傾け、ともに歩もう」です。日本カトリック司教協議会 会長談話
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/05/06/24572/

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

復活節第6主日のミサhttps://youtu.be/HRWAgtDxr-o

■6月15日、大塚司教様が司教叙階25周年を迎えられます。コロナ下ですので、信徒の参加できる特別の行事はありません。京都教区内の小教区では、6月26日の主日ミサで、司教様のために感謝を込めてお祈りを捧げることになっています。それに加え、高野教会では、皆さまからのお祝いのメッセージを司教様に差し上げたいと思っています。詳しくは、ミサの時のお知らせ、または一斉送信メールをお読みください。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ14章23~29節)

 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが最後の晩さんの席で、聖霊の派遣について話される箇所が朗読されます。正直なところ、理解するのが難しい箇所でもあります。そもそも、イエスさまについては理解できるところはあっても、聖霊とか弁護者と言われると何のことかよく分からなくなります。そもそも、わたしたちが普通に使っている“神”と訳された言葉も、はたして現代人にとってどれほどの意味をもっているのでしょうか。

旧約聖書のなかで、神の霊、聖霊を表すために「風」という言葉が使われてきました。風というものは、空気の流れのこと、あるいは流れる空気自体のことを指しています。古来、日本でも風は、眼に見えないものを表すためにも使われてきた意味の深い言葉です。今でこそ、空気の実体が解明されていますが、空気自体は目には見えず、しかしながら、空気の流れ、動きによって、風があることが分かります。たとえば、木々が揺れていることで、空気が動いていることが分かります。つまり、風は空気そのものを指すのではなく、空気の流れ、動きであり、あるものを動かす働きのことを言っています。遠藤周作は小説「深い河」の中で、「神は存在というより、動きです。玉ねぎは愛の働く塊りなのです」と言っています。従来のキリスト教の中では、神さまは存在そのものであるという説明がなされてきたと思います。しかし、現代人にとっては、神という言葉はもはや重みのない、実感のない言葉になっているのではないでしょうか。だから、遠藤は神という言葉を使わず“玉ねぎ”という言葉を使います。玉ねぎは、皮をむいていくと最後にはその実体がなくなってしまう、しかし、人がそれを料理しようとすると勝手に涙が出てくる、そのように人を内側から突き動かしていく働きとして、神を捉えようとしたのだと思います。

今日読まれるヨハネの箇所の中でも、聖霊はわたしたち人間のうちに内住し、人間を弁護する「弁護者」であり、また弁護しながら「側にいるもの」、弟子たちに「すべてのことを教え」イエスさまの「話したことをことごとく思い起こさせて」くれる “働き”であると述べています。働きと言っても、わたしたちはあんまりピンとこないかもしれませんが、わたしが今日ここに、このようにしていることができるのは、いろいろな人の助けや関わり、いろんな出来事、またわたしが置かれた環境、それが宇宙であったり、地球であったり、地域であったり、家族であったり、いろんなことの繋がりのおかげです。そのひとつでも欠ければ、わたしという人間は存在していないのです。つまり、わたしたちの意志や思いを超えた大きなものが、わたしを生かし働いているということではないでしょうか。それを、わたしたち日本人は「生かされている」という言葉で言い表しているのだと思います。遠藤は、その人を生かす働きのことを神と言ったのでしょう。神とか聖霊という言葉を使ってしまうと、あまりにも実感のない陳腐なものになってしまいます。

聖霊は、キリスト教の教義では三位一体の第三の位格であると説明されています。しかし、そのような説明がわたしたちの心を打つことはありません。普通、わたしたちが元気なときは、自分の力で何でもできて、動いて、働くことができます。そして、わたしたちは自分の人生を思う通りに設計し、それを実行し実現できることが人間としての能力、実力であり、幸福であると考えているのではないでしょうか。しかし、人は生きていくときに、必ず自分の思いが通らないことが起こってきます。それを人間は苦しみとして体験するわけです。そのことによって、わたしたちは、自分の力だけではどうすることも出来ないこと、自分の心も体も寿命も思い通りにできないこと、まして他人や世界を思い通りにできないことに気づきます。

もし、人生がわたしのものであれば、わたしの人生はわたしの思い通りになるはずです。しかし、“わたしの人生は”、わたしの人生ではなく、わたしは生かされていたのだということに気づくことが聖霊を体験するということではないでしょうか。それは、風に動かされてみて、はじめて風の働きに気づくようなものだと思います。イエス・キリストという方は、わたしたち人類をいのちの根源において支え、生かし、働きかけておられる大きないのちです。そして、その大きないのちが、わたしたち人間にも見える形で人間となった出来事です。そのイエスさまを通して、わたしたちは大きないのちの働きで動かされ、その大きないのちで生かされている、おかげさまであるということに気づきます。そのとき、わたしたちを生かし、動かしている働き、聖霊を体験しているのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。