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教会からのお知らせ

主の昇天の福音と勧めのことば

2022年05月29日 - サイト管理者

信徒の皆さまへ

♰主の平和

復活節も聖母月も終わりに近づきました。信仰の喜びに満たされながら、心を合わせて平和を祈りたいと思います。

全能の神よ、
あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。(主の昇天の集会祈願より)

■5月・6月ミサ予定 
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

5月
28日㊏ AC地区 主の昇天のミサ     10:00
29日㊐ BD地区 主の昇天のミサ    10:00
6月
4日㊏ BD地区 聖霊降臨の主日のミサ  10:00 
5日㊐ AC地区 聖霊降臨の主日のミサ  10:00
11日㊏ ミサなし
12日㊐ ミサなし
18日㊏ AC地区 キリストの聖体のミサ  10:00
19日㊐ BD地区 キリストの聖体のミサ  10:00
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ  10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ  10:00

■教皇、5月31日に平和を願うロザリオの祈り
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/05/27/24672/
教皇フランシスコは、ローマ時間の5月31日午後6時(日本時間・6月1日午前1時)から、ローマの聖マリア大聖堂内の平和の元后マリア像の前で、ウクライナをはじめとする世界の紛争地での平和のためにロザリオの祈りを唱えます。全世界の信者は、平和の元后に祈る教皇フランシスコとともにロザリオの祈りを唱えるよう招かれています。

■5月22日から29日は「ラウダート・シ週間」です。今年のテーマは「ともに耳を傾け、ともに歩もう」です。日本カトリック司教協議会 会長談話
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/05/06/24572/

■教区時報6月号が発行されました。京都教区HPよりお読みになれます。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/535.pdf
冊子は聖堂後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

主の昇天のミサ
https://youtu.be/tLmeKtE99wk

■6月15日、大塚司教様が司教叙階25周年を迎えられます。コロナ下ですので、信徒の参加できる特別の行事はありません。京都教区内の小教区では、6月26日の主日ミサで、司教様のために感謝を込めてお祈りを捧げることになっています。それに加え、高野教会では、皆さまからのお祝いのメッセージを司教様に差し上げたいと思っています。詳しくは、ミサの時のお知らせ、または一斉送信メールをお読みください。

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福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節

 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には」次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日です。教会では、伝統的にルカの記述に従って、50日目に聖霊降臨を、40日目に主の昇天を祝ってきました。ですから元々は、先週の木曜日に主の昇天が祝われていました。しかし、日本の教会の特例として、復活節第7主日に移動して祝っています。ですから、復活祭があって、40日目に主の昇天があって、50日目での聖霊降臨があったと思っているかもしれません。しかし、これはルカの理解であって、もっとも古いマルコ福音書にはそのような記述は見られません。補遺として主の昇天の記述がありますが、これは後代の加筆であるとされています。教会は古い時代から、主の復活の日から50日間に亘って、その期間をひとつの祝日として祝ってきました。ですから教会は、この50日間を復活節と呼び、年間とは異なった大アレルヤ唱という旋律が歌われ、イエスさまの復活の意味を深める機会としてきました。

そもそも、キリスト者における根源の祝日は主の復活です。イエスさまの復活された日が日曜日であることから、毎週日曜日に集まって、主の日を祝ってきました。それ以外の祝日は、すべて主の復活から派生したものであって、主の復活以外のお祝い日があるというふうに捉えるのは正しい理解ではありません。ですから、主の昇天も聖霊降臨も、その後に続く三位一体の主日、キリストの聖体の祝日なども、お祝いしているのは主の復活の側面をお祝いしているのであって、別のことをお祝いしているのではないということを押さえておく必要があります。また、教会の長い歴史において、本質的でない聖人の祝いなどが加わり、主日の意味を不透明にしてしまったという経緯もあります。ですから、如何なる聖人の祝日であっても、それが日曜日とかちあえば消えてしまい、主の日として主の復活の祝いが優先されるのはそのためなのです。

それで今日は、イエスさまの復活のひとつの面として主の昇天をみていきたいと思います。そもそも、イエスさまの復活が何であったかということを、わたしたちが頭で理解することは出来ません。弟子たちも、イエスさまの復活を頭で理解したわけではありません。福音書の中ではイエスさまの復活について、弟子たちは「まだ理解していなかった」という言い方と、「信じるものになりなさい」という2つの言い方が出てきます。つまり、「理解する、分かる」ということと、「信じる」ということを区別して説明しているということです。

わたしたちは、自分の目の前にあるものを信じるとは言いません。それは明らかに存在しており、わたしには自明のこととして分かりますから、信じるという必要がないからです。しかし、信じるということは、それが本当にあるかどうか分からない場合に信じるという言葉を使います。明らかにあるものについて、信じるとは言いません。分かると言います。しかし、あるかどうか分からないものについては、わたしたちは先ずその存在を疑います。そして、わたしがその存在を信じるようになるには、人々の証言、あるいは自分の体験によってしかありません。イエスさまの復活も同じです。わたしたちは、復活したイエスさまを見たわけでもなく、確認することも出来ません。もし、わたしがイエスさまの復活を信じるというなら、多くの場合は他の人の証言によるものです。教会はこれを伝承と呼んでいます。つまり言い伝えということです。親から言われたとか、日曜学校で教わったとかいう類のものです。ですから、イエスさまは昇天に際して、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と、弟子たちに言われたのでしょう。しかし、その証言が本当かどうか、わたしたちには確認するすべがありません。

ただ不思議なことに、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、という証言を聞いた人たちは、弟子たちの人格に関係なしに、イエスさまの復活と罪のゆるしを信じるようになっていったということです。イエスさまの生前の弟子たちは、本当にしょうがない人たちでした。そして、イエスさまが復活された後の弟子たちは、大きな変化を体験したようですが、人間的に見れば以前と変わらない人たちでした。ただ彼らは、イエスさまがこんなしょうもない自分たちを愛し、ゆるしているという確信だけはありました。人々は、弟子たちの人格が素晴らしいから、その証言を信じるようになったのではないのです。彼らの人間的な弱さや欠点、狡さを上回って、もっと大きな何かが働いていることを人々は感じ、自分たちも何か分からない大きなものに動かされるということを経験したのでしょう。それで、人々は弟子たちが言うから信じるのではなく、このどうしようもない人たちを突き動かしている働きを見て、自分たちもその同じ働きを体験したことにより、信じるようになったのです。

理解するとか分かるというのなら、わたしの行為です。イエスさまが死者の中から復活したなど、わたし自身で理解して分かろうとしても、到底信じることはできません。荒唐無稽な話で、疑いだらけです。しかし、ここでいう“信じる”ということは、わたしの業ではなく、わたしに働きかけてきたものの結果、わたしのなかで起こってきたことなのです。弟子たちに働きかけてくる力を体験した出来事、つまり同じものがわたしに働きかけてくる出来事、それが主の昇天であり、弟子たち、そしてわたしたちの復活体験であったのです。わたしが信じるのではなく、わたしのなかに聖霊が入って来て、わたしを動かして、信じさせているという働き、それがわたしの復活体験であり、主の昇天、聖霊降臨なのです。わたしたちは、夫々別のことを祝っているのではありません。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。