三位一体の主日の福音と勧めのことば
2022年06月12日 - サイト管理者♰主の平和
お変わりなくお過ごしでしょうか。
雨の季節が近づきました。体調にご留意され、お元気でお過ごしください。
聖霊を受けて遣わされるわたしたちが、御子キリストに従う生活を互いに支え合い、父である神の愛を伝えていくことができますように。(三位一体の主日共同祈願の例文より)
■6月ミサ予定
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
6月
12日㊐ ミサなし
18日㊏ AC地区 キリストの聖体のミサ 10:00
19日㊐ BD地区 キリストの聖体のミサ 10:00
25日㊏ BD地区 年間第13主日のミサ 10:00
26日㊐ AC地区 年間第13主日のミサ 10:00
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
三位一体の主日の主日のミサ
https://youtu.be/zWfrzFcmfuc
■京都教区高校生会より、夏の集いの案内が届いています。7月30日(土)名張教会にて行われますので、該当の高校生にお知らせください。詳しくは教会のポスターをご覧ください。https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_09d68111c0c147ebae9949d74315b40e.pdf
■6月15日、大塚司教様が司教叙階25周年を迎えられます。コロナ下ですので、信徒の参加できる特別の行事はありません。京都教区内の小教区では、6月26日の主日ミサで、司教様のために感謝を込めてお祈りを捧げることになっています。それに加え、高野教会では、皆さまからのお祝いのメッセージを司教様に差し上げたいと思っています。詳しくは、ミサの時のお知らせ、または一斉送信メールをお読みください。
■北村神父様の昨年の勧めの言葉が本になりました。ご希望の方は、ミサの時に受付で600円でお分けします。
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ16章12~15節)
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きな働きを黙想し味わってきました。そして、今日、わたしたちは三位一体の主日を迎えました。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちの働きであったというのが、今日のお祝い日の意味です。それで、今日のお祝い日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。
さて、いのちの本質とは何でしょうか。いのちとはわたしたち以前にすでにあるものです。わたしたちは、この世界に、与えられた自分と与えられた両親、与えられた家族や環境、地域、国などすべて運命的に引き受けて生まれてきました。わたしが生まれる前に、いのちはすでにこの世界はありました。ですから、わたしたちは、この世界に遅刻してやってきたということなのです。ところが、この世界に遅刻してやってきたのにも関わらず、あるときからわたしたち人間は、この世界をわたしの世界だと錯覚し、この世界を支配し、コントロールしようとし始めました。それが人類の歴史であり、それはそのままわたしの歴史でもあります。すべてを与えられて生まれてきたはずのわたしが、わたしの両親、わたしの家族、わたしの国というふうになり、与えられたはずのいのちもわたしのいのちであると主張し始めました。そして、わたしたちは、いのちの主人となり、そのいのちを支配し、コントロールしようとしました。そのことが、人間の社会に文明や科学の進歩、発展をもたらしたことも事実です。しかし結局のところ、わたしたちは、何も支配しコントロールできないのだということにも気づかされました。わたしは自分の力で、わたしのいのちを一日でも長くも短くもできないのです。また、わたしの力で、わたしの信仰を強く確固なものとすることも出来ないのです。しかし、多くの人たちが、信仰をわたしの心の問題だと捉えているのではないでしょうか。それなら、わたしたちの心ほど、あてにならないものはありません。わたしの心は、ときとところによって、ころころと変わっていきます。信仰をわたしの心の問題として捉えているかぎり、信仰が定まらないのはあたりまえでしょう。
そこから分かることは、実はわたしがわたしのものだと思っているもの、わたしのいのち、わたしの心、わたしの信仰、わたしの体、わたしの時間、わたしの両親、わたしの子ども、わたしの教会など、“わたしの”と言えるものは、この世界には何もないということなのです。“わたしの”というものは、すべてわたしの思い込みではないでしょうか。もし、“わたしの”何かがあるとしたら、それはこの世界との関わり、繋がりの中である“わたし”であって、“わたしの”という実体は何もないのです。それでは何があるのかというと、わたしたち以前にあるもの、それを“いのち”と言います。このいのちが、わたしたちを生かし、動かしています。そのいのちは、すべてのものと繋がっており、すべてのものはこの大きないのちの働きの中にあります。その大いなるいのちをわたしたちは、三位一体のいのちと呼んでいるのです。そのいのちは、目には見えませんが、絶えまなく自分を与え尽くしていく働きそのものであり、わたしたちを生かし、支え、導いているものです。そして、そのわたしたちも、他の人や他のものと関わり、繋がっていきます。
この壮大ないのちの営み、動き、働きは、世界に遣わされたみことばとして、聖霊としてわたしたちに示されました。それは、人間となってわたしたちに遣わされたイエス・キリストという出来事であり、イエスさまはそのいのちの神秘をわたしたちに示し、人間が何者であるかを人間自身にご自分の愛をもって完全に現されました。また、そのいのちの本質である愛を聖霊としてわたしたちに遣わし、その聖霊はわたしたちの魂のうちに住みながら、わたしたちを愛で充たし、大いなるいのちの洪水でわたしたちを満たされました。時間と空間を超えた永遠である三位一体である大いなるいのちは、時間の流れの中でしか物事を捉えることができないわたしたち人類のために、わたしたちが具体的に見て、聞いて、触れることのできるものとなられたという出来事が、イエス・キリストなのです。
こうしてイエス・キリストは、人類の歴史のなかで一回きりの出来事となってくださったことにより、すべての人類にとって決して理解することができない“永遠”を示してくださったのです。また、永遠である方が時間の流れにあるわたしたちと同じ人間となることによって、わたしたちがすでに永遠において、大いなるいのちの動きの中にあることに目覚めさせてくださったのです。ですから三位一体は、わたしたちを生かし、支え、導く働きであるとともに、わたしたちがすでに巻き込まれている大いなるいのちの愛の動きそのものであるわけです。今日の三位一体のお祝い日は、神さまの大いなるいのちの神秘を祝うとともに、わたしたちがすでに生かされているいのちのダイナミズム、動きに気づかされる日でもあります。わたしは神のうちに、神はわたしのうちにあることを知る人は幸い、三位一体のいのちをわたしたちは今すでに生きているのです。