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教会からのお知らせ

年間第16主日の福音と勧めのことば

2022年07月17日 - サイト管理者

♰主の平和

不安定なお天気が続いています。
お変わりございませんか。
コロナの感染者がまた増加していて、だれがかかってもおかしくない状況です。
どうぞご自愛ください。

救いの源である神よ、あなたはいつもわたしたちのもとを訪れ、語りかけてくださいます。神の子として集められたわたしたちが、きょう語られるいのちのことばに耳を澄ますことができますように。(年間第16主日の集会祈願より)

■7・8月のミサ予定 
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

7月
16日㊏ BD地区 年間第16主日のミサ 10:00
17日㊐ AC地区 年間第16主日のミサ 10:00
23日㊏ AC地区 年間第17主日のミサ 10:00
24日㊐ BD地区 年間第17主日のミサ 10:00
30日㊏ BD地区 年間第18主日のミサ 10:00
31日㊐ AC地区 年間第18主日のミサ 10:00

8月
6日㊏ AC地区 年間第19主日のミサ 10:00
7日㊐ BD地区 年間第19主日のミサ 10:00
13日㊏・14日㊐ ミサはありません(15日㊊聖母の被昇天のミサもありません)
20日㊏ BD地区 年間第21主日のミサ 10:00
21日㊐ AC地区 年間第21主日のミサ 10:00
27日㊏ AC地区 年間第22主日のミサ 10:00
28日㊐ BD地区 年間第22主日のミサ 10:00

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

年間第16主日のミサ
https://youtu.be/kjyzHeN0VT4

■司教叙階25周年に関しての大塚司教様からのお礼のお手紙です。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_c8fa8e6d069b4317b9d0509e9bdc1974.pdf

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ10章38~42節)

 (そのとき、)イエスはある村にお入りになった。 すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。 手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のマリアとマルタの話は、ルカ福音書にだけある箇所です。この箇所は、過去の教会では、活動の生活に対して祈りの生活の優位を説くためによく引用されてきた箇所です。つまり、祈りに専念することが尊いことで、それに対して活動や生活にまつわることは二次的なことと捉えられてきました。ですから、キリスト者としても、司祭・修道者になることが本来の生き方で、信徒はそうなれなかった人たちだと考えられてきました。信徒は、司祭・修道者が唱える教会の祈り(聖務日課)が出来ないので、その代わりにロザリオの祈りを信徒の聖務日課として勧めたのもそのような経緯がありました。また、教会の中に、信徒・助祭・司祭・司教という位階制度を設け、祈りや教育に従事すること、労働に従事することに上下をつける時代が続きました。少し考えたらイエスさまの思いでないことは直ぐに分かるのですが、そのような誤った考え方が教会の中で、長い間平然と続いてきました。そして、そのような考え方を擁護するために、今日の福音は利用されてきました。公会議後はその反動から、祈りの生活を否定するような活動主義に傾いた時代もありました。

先週に続いて今日の箇所も、イエスさまがよきサマリア人のたとえを話すきっかけとなった神への愛と隣人愛をどのように理解していくかということと繋がっています。先週は、ユダヤ人たちが隣人愛について取り上げながら、どこまでが隣人かと言って、境界を設けていることが問題になりました。つまり、隣人という境界をどこに引くかということが関心事となっていたということです。そもそも、隣人を敵・味方という概念で区別している人間の心のあり方そのものが問題である、ということが指摘されました。そして、今日の箇所では、神への愛と隣人愛を対立するものとして捉えている人間のあり方が問題にされていると言えばいいでしょう。

そもそも、神への愛と人々への愛、奉仕、祈りの生活と活動生活を分けて考えるという発想に問題があるということです。このふたつを分けて考えている限り、人々への愛の奉仕に献身している人たちは、祈りだけして何も活動をしない人を批判し、祈りの生活が大切だと主張する人たちは、愛の奉仕という名目のうちになされている活動主義を批判することとなります。しかし、人間が生きていくときに祈るということも、また活動するということも、それはいずれも生きている人間の姿であって、そこには上とか下とかいうことはありません。たとえば、わたしたちが食事をすることと、食べたものを消化し排泄することと、どちらが尊くてどちらが賤しいかなどと考えないでしょう。人間として生きるうえで、いずれも当たり前のことなのです。

人間は生き物である限り、他のいのちをいただくことでしか生きていけません。そのようないのちへの感謝から、祈りや宗教が生まれてきたのかもしれません。ですから、人間として祈りを捧げることも、いのちをいただくことも、いのちを狩ってくることも、皆等しく人間の生きていくための生業なのです。そのどちらが尊くて、どちらが賤しいとか、どちらが高等で、どちらが下等だというようなことはあり得ないのです。しかし、そこに区別を持ち込んできた人間の心の闇が問題なのです。先週と同じ問題が底辺に流れているように思います。

しかし、かといって、皆が同じことをすることはできません。夫々に夫々の役割があり、働きがあります。パウロは「体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか(Ⅰコリ12:17)」と言っています。ひとり一人が皆違っているように、夫々のあり方も働き方も違っています。この世界に同じものは何ひとつありません。この世界は多様性に満ちています。決して一括りにはできません。わたしたちは、とかくすると、すべての違ったものが同じになること、同じ扱いを受けることを平等であると考えがちです。そして、ひとり一人、一つひとつ違っているのに、平等という名のもとに均一化を強要されます。それが人間社会でもあったり、教育、宗教だったりするわけです。現代、個性や人権を尊重するなどといいますが、もともとすべて異なっているのにそれを認めず、同じだと錯覚しているので、そのようなことを言わなければならないのではないでしょうか。そこに多様性と平等のはき違えが起こっています。

わたしたちは夫々が皆違っており、夫々が当事者です。わたしたちは各自が皆、祈る人、奉仕する人、宣教する人なのです。しかし、そのあり方、働き方はすべて違っていますが、それでいいのです。ですから、神への愛と隣人愛、祈りと活動を対立させて、役割とか働き、身分を固定してしまうのは違います。わたしたちは、皆が夫々当事者であり、生活者なのです。生活を離れて、祈りも奉仕も宣教もあり得ません。イエスさまはマルタのあり方を否定して、マリアのあり方を肯定されたのではないのです。マリアとマルタという働きを分けることはできないのです。祈るときは祈り、働くときは働く、それでいいのです。そこに優劣をつけているわたしのあり方そのものが問われているということでしょう。わたしたちが、そのときその場にあったあり方、働きからずれていること、見極めることができないという心の迷いが問題なのです。

わたしたちは、とかく主観に流され、本来の自分というものを見失いがちです。禅でいう主人公という言葉がありますが、主人公とはあらゆるものに束縛されず自由自在である主体的な自己を意味しています。主人公とは、まさに聖霊によって導かれている存在であると言えるのではないかと思います。しかし、わたしたちが聖霊によって導かれるためには、聖霊を受けとるアンテナの精度を保っておく必要があります。それが日々の祈りです。その祈りによって、イエスさまに焦点を合わせることとなり、あれかこれかの生き方ではなく、主人公としての生き方が内側から湧き出てくるように思います。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。