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教会からのお知らせ

年間第19主日の福音と勧めのことば

2022年08月07日 - サイト管理者

♰主の平和

酷暑、豪雨など、外に出づらいお天気が続いています。
また、新型コロナウイルスの感染爆発の中、ミサの中止が続いております。
お変わりなくお過ごしでしょうか。
どうか家の中にいても、体の糧、心の糧を大切にして過ごすことができますように。

また広島原爆の日にちなみ、フランシスコ教皇様の今年の復活祭メッセージも思い起こしたいと思います。「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的にかかわりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(
2022年4月17日)。

■2022年平和旬間8月6日~15日
日本カトリック司教協議会会長談話「平和は可能です。平和は義務です。」
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/07/11/24906/
(上の教皇様のメッセージを引用してあります)

■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

年間第19主日のミサ
https://www.youtube.com/watch?v=XE0zQZu8W84

■京都教区時報8月号が発行されました。冊子は聖堂に置いてあります。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/537.pdf

■ドン・ボスコ社より、『カトリック生活』のバックナンバーから2回分計60
冊の寄贈がありました。コロナ禍の霊的読書のためにとのことです。冊子は聖堂に置いてあります。

■京都教区カトリック正義と平和協議会 第15回戦争と平和写真展「沖縄 フクシマ アフガニスタン」

日時:8月6日(土)15:00~20:00
   8月7日(日) 7:00~15:00
会場:河原町教会ヴィリオンホール
入場無料

■京都教区中高生 広島平和学習オンライン企画「テーマ:バトンリレー」
広島平和巡礼を、今年はZOOMで開催します。過去2年間、中学生の広島平和巡礼が中止になったので、今回の対象は中学生と高校生です。
日時:8月13日(土)13:30~
それ以上の方のご参加も歓迎と書かれていますので、ご案内します。

■洛北ブロック中高生会 夏の集い「聖書のおなまえっ!」
こちらは、8月下旬に対面で開催予定でしたが、【中止】になりました。ご了承ください。

■教区典礼研修会「新しいミサ式次第の実施について」
日時:9月17日(土)14:00
方式:ZOOM
※ご参加の際は、お手元に『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』や新しい『会衆用式次第』などをご用意ください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ12章32~48節)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)
(「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、 すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、 自分の家に押し入らせはしないだろう。 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
(そこでペトロが、 「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。 それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。
「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした 忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、 下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、
あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。
すべて多く与えられた者は、多く求められ、 多く任された者は、更に多く要求される。」)

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、主人の立場から読むか、僕の立場から読むかによって、まったく変わってくると言える箇所です。僕たちの立場から読むと、「腰に帯を締め、ともしびを灯していなさい」という警戒についての箇所としか読めません。さらに、「主人が婚宴から帰って来て戸を叩くときに、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」と続きます。わたしたち人間は、どこまでいっても自分という立場からしか考えられません。わたしたち人間の目はすべて外に向かってついていますから、わたしたちは外界しか見えません。自分を通して、自分の視点でしか物事を見ることはできません。よく人の立場に立って考えましょうと言いますが、わたしたちができることは、せいぜい自分の今までの体験に基づいて想像力を巡らすことや、ユダヤ教の律法から言えば「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」と言われることをするのがやっとです。自分にしてもらいたいこと、自分を中心にしてしか物事を考えられないのです。わたしたちは、どんなに頑張っても、相手の身になることはできません。皆が違っており、皆それぞれが自分の考えている世界を自分の内に作り出しているのに過ぎません。皆が兄弟であるとか、全人類は仲間であるというのは、いのちが繋がっているという意味ではそうなのですが、所詮綺麗事になりがちです。わたしたちは、自分がこれは善で、正義で、幸せだと思っている世界を自分の心のうちに作り出し、それで判断しているだけなのです。もし、皆が同じ平等の世界を生きているのであれば、戦争もないでしょうし、差別もないし、区別も上下関係もないはずです。

わたしたちが神さまと自分との関係を捉えていくときも、自分は僕であるとしか思えません。自分は主人で、神さまは僕だと考える人がいるでしょうか。しかし、一方ではわたしたちは心の中で自分が主人になって、主導権を握って、すべてを自分の思う通りにしたいと思っています。どこまでいっても自分が主人なのです。そのわたしがやることを、神さまは寛大に助けてくださると信じています。にもかかわらず、神さまの前に出ると卑屈に、自分は僕だと考えます。だから、主人がいつ帰って来てもいいように、怒られないように目を覚ましているとか、ともしびを整えておくとか、きちんと家の中を整理整頓しておくとか、いつお迎えが来てもいいように心の整理をしておくとか、そんな程度のことしか思いつかないのです。これが人間の浅ましい本性です。

それに対して、主人の態度は、まったく僕たちが予想だにしなかったものでした。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる」。普通なら、主人が食卓に着いて、僕たちに帯を締めて、給仕させるでしょう。しかし、まったく違った主人の姿が描かれています。そこから言えることは何でしょうか。実は、わたしたちが考えているようなキリスト教とか、神さまとか、イエスさまとか、救いとか、天国とか言うようなものは、わたしたちが思っているようなものではないということだと思います。イエスさまの思いや救いは、わたしたちの小さな頭で作り出した世界をはるかに超えたものであるということなのです。それを人間の言葉では言い表しきれませんから、聖書のなかではたとえで説明されます。イエスさまの福音宣教の中心である「神の支配」を意味する神の国も、たとえでしか語ることができないものなのです。

主人の帰還が、僕たちが思い描いていたようなものではなかったように、神さま、イエスさまはわたしたちが思っているような神さまでも、イエスさまでもないということなのです。わたしたち人間は皆、自分の立場からしか考えられませんから、自分の都合がいいように、自分の思いに沿うように、また人心を支配しやすいように、よきにつけ悪きにつけ、人間の立場からイエスさまについて考え、イエスさまの教えを作り出し、それをあたかもイエスさまが教えたかのように伝えようとしてしまいます。宗教の本来の役割は、そのような思い込み、そのような人間の思いという世界の中に閉じ込められているわたしを破っていくものなのです。

人間は自分の作り出した思いの中に閉じこもり、あれやこれやと思い悩み、何とか自分の力で努力して何とかしようとし、しかしそれゆえにがんじがらめになっている、そのようなわたしたちが破られていく世界、それが神の国、イエスさまとの出会いなのです。つまり、イエスさまの到来、この聖書箇所で言われる主人の帰還は、わたしをわたしというものから解き放ってくれる働きなのです。イエスさまとの出会いは、わたしたちを咎めたり、懲らしめたり、まして罰するためではありませんし、まして、わたしたちを「よくやった、よい僕だ」と褒めることでもありません。イエスさまの到来は、わたしをわたしの思いから解放する働きなのです。そして、それが救いと言われるのです。ですから、救いというものもおそらくわたしたちが考えたり、想像したりしているものをはるかに超えたものなのです。

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ミサの時間

毎週 10:00~
毎週 10:00~

現在、高野教会では人数制限の上ミサを行っておりますので、詳細はトップページの「重要なお知らせ」と「教会からのお知らせ」をご確認ください。