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教会からのお知らせ

年間第20主日の福音と勧めのことば

2022年08月14日 - サイト管理者

♰主の平和

酷暑が続いております。高野教会のミサ中止期間は8月いっぱいと延長されました。人の集まることができない高野教会のお庭ですが、毎日のように有志の方々がそれぞれに手入れに訪れてくださり、感謝です。歩道から、マリア様に手を合わせる人の姿も見受けられます。女子パウロ会のウェブサイトより、メッセージを引用させていただきます。

8月15日、通常はふるさとに向けて日本中は旅する人びとでごった返しますが、新型コロナウイルス感染症「第7波」の感染拡大の中にあって、例年とは違った方法でこの日を迎えることでしょう。この日、わたしたちの真のふるさとをも思い起こさせます。教会は、聖母の被昇天を祝います。 日本の戦争は聖母の祭日[12月8日]にはじまり、聖母マリアの祭日[8月15日]に終了したのです。平和の女王でもある聖母に、平和の恵みの取り次ぎを乞い願いましょう。(女子パウロ会公式サイト ラウダーテ「2022年8月」より。https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/

■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第20主日のミサ
https://www.youtube.com/watch?v=0MExLevzYZA

■2022年平和旬間8月6日~15日
日本カトリック司教協議会会長談話「平和は可能です。平和は義務です。」

■【本日】8月13日(土)13:30~ZOOM開催
京都教区中高生 広島平和学習オンライン企画「テーマ:バトンリレー」
中学生と高校生対象ですが、それ以上の方のご参加も歓迎と書かれていますので、ご案内します。

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
「8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事が行われます。期間中、通行ができなくなり、墓参していただけません。大変ご迷惑をおかけいたします。」上記のように、京都教区より連絡がありました。衣笠墓苑にお墓をお持ちのお知り合いの方にも、どうぞお伝えくださいますようお願いします。

■ドン・ボスコ社より、『カトリック生活』のバックナンバーから2回分計60冊の寄贈がありました。コロナ禍の霊的読書のために、とのことです。冊子は聖堂に置いてありますのでお持ちください。

■新しい『ミサ式次第【会衆用】簡易版』の配布について
11月からミサの式次第が新しくなりますので、皆様の個人使用のための小冊子を、教会で一括注文しております。9月に入ったら、皆様への配布方法についてご案内いたします。この新しい式次第については、菅原神父様が『京都教区時報』に7回にわたって連載記事を書いてこられました。現在、まとめて教区のホームページで読むことができます。ぜひ、ご参考になさってください。

■教区典礼研修会「新しいミサ式次第の実施について」
日時:9月17日(土)14:00
方式:ZOOM
※ご参加の際は、お手元に新しい『ミサ式次第』、『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』などをご用意ください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ12章49~53節)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、 二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、「わたしが来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われました。さて、ここで言われる火とは何でしょうか。イエスさまが切に願っておられたこの火とは、どのような火なのでしょうか。旧約聖書のなかで、火は聖霊のシンボルとして使われてきました。火は人間の生活に欠かせないのですが、それ以上に、火はすべてのものを焼き尽くし、すべてのものを浄め、すべてのものを自らへと同化してしまう働きがあります。イエスさまが地上に火を投ずるために来たと言われるのは、この世界をご自分の愛の火で焼き尽くすことだったのではないでしょうか。イエスさまがこの世界に愛の火が燃えることを切望され、また愛の火でこの世界を焼き尽くそうとされたということが、どのようなことであるかを、今日は味わってみたいと思います。

この愛の第1の特徴は、すべてのものを焼き尽くす働きであるということです。すべてのものを焼き尽くすということは、よいものも悪いものも、価値があるものも価値がないものも、紙切れであろうと1万円札であろうとも、同じように燃え尽くしてしまうということです。よいもの悪いもの、価値があるもの価値がないもの、紙切れと一万円札の違いを決めているのは誰でしょうか。それは人間の分別です。付加価値をつけるという言い方をしますが、付加価値とは、生産活動によって生産された商品の価格が、原材料等の価格より高くなることを言います。そもそも、その原材料に価格をつけているのも人間です。その基準は、あくまでも人間にとって役に立つか役に立たないかです。この世界のすべてのものが商品のための材料とされ、人間さえも人材として扱われているわけです。その根底にある価値観が、わたしにとっての善悪、有用無用という分別に他なりません。そして、その分別が人間世界にありとあらゆる分断、分裂、差別、争い等を引き起こしているのです。イエスさまが投ずるために来たと言われる火は、それらのすべて飲み込んで、焼き尽くしていきます。これが愛の第1の働きです。

第2の特徴は、火はすべてのものを浄める働きであるということです。大海は、自分に注がれるすべての汚れを受け入れます。大海は、単にその汚染されたものを希釈するとかではなく、浄化していく働き自体をもっています。火も同じように、汚れたものを薄めるのではなく、自らが受け入れて、その汚れを浄める働きをもっているのです。わたしたちの罪や汚れ、過去の忌まわしい思い出や傷、どうすることも出来ないものもすべて焼き尽くしていきます。わたしたちの中にあるそのようなものを、わたしは自分ではどうすることも出来ません。わたしたちがどれだけ否定しようとも、わたしの中で歴然として存在し続けるわたしの一部でもあるのです。しかしそれらが、イエスさまの愛の火の中に一度投げ込まれると、焼き尽くして、わたしたちを浄めていくのです。

第3の特徴は、火は火の中に投げ込まれたものを、自分と同じものにしていくということです。たとえそれがどんなに汚れたものであっても、ひん曲がっているものであっても、一度火の中に投げ込まれると、初めは臭い匂いやその中に含んでいる水蒸気、有害物資を吐き出しながらも、火は投げ込まれたものの中に浸透していき、やがてそのものは火と区別することができないほどひとつになって、火と一体となって燃え上がります。わたしたちの罪や汚れ、わたしたちのみじめな自己中心性、わたしたち自身もすべて、聖霊という愛の活ける火の中に投げ込まれるなら、わたしたちの感覚は静められ、分別という理性は浄められ、意志は神の意志と一致して、ただひとつの意志、ひとつの愛となって、イエスさまが愛される同じ愛をもってイエスさまを、人々を愛するようになります。そこにおいては、「もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる(コロ3:11)」世界が現れます。そしてその世界こそが真実の世界であり、実はわたしが今生きている世界は真実の世界なのです。その真実に背を向けているのがわたしたちです。その真実に目覚めさせようという働きが、聖霊の働きであり、イエス・キリストなのです。

ここで大切なことは、その世界は将来のこととか、わたしたちが努力して頑張って、いつかそうなると言っているのではありません。わたしたちは、今、ここですでに愛の火に投げ込まれ、愛に焼き尽くされて、愛の炎と化して燃え上がっているのです。わたしたちが頑張って愛の業を行って、将来、愛の火が燃え上がると言うのであれば、それは人間の世界、人間の計らいの話に過ぎません。

イエスさまが宇宙の歴史の中にお生まれになったことによって、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって、ご自分の愛を永遠化して、無限の光ですべてのものを照らし、無限のいのちですべてのものを充たし、時間と空間を超えて、今、わたしたちは愛の炎に焼き尽くされ、愛の炎と化され、燃え上がっているのです。死んでからの話しでも、特別な聖人たちのための話しでもないのです。その愛の火がすでに燃え上がっており、わたしたちがそのことに目覚めることをイエスさまは願っておられるのです。イエスさまが切に願っておられるということは、それはもうすでに実現しているということなのです。「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現している(ルカ4:21)」と言われていることです。わたしたちが信じたからそうなったとか、何かを行ったからそうなったとか、わたしたちが祈ったからそうなったとかいう話ではありません。イエスさまがそうされているのです。わたしたちは、聖霊によって燃やされ生かされている、「あゝ、そうであったのか」と気づくこと、そのことをいただくこと、それが信じるということなのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。