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教会からのお知らせ

年間第22主日の福音と勧めのことば

2022年08月28日 - サイト管理者

♰主の平和

空には秋を感じる雲が浮かんでいました。
日中はまだまだ暑いですが、少しずつ季節が移り変わっています。
どうぞくれぐれもご自愛くださり、祈りのうちにお過ごしくださいませ。

■すべてのいのちを守るための月間 https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
日本のカトリック教会は、9月1日から10月4日まで、「すべてのいのちを守るための月間」と定め、9月4日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。教皇フランシスコは、この日にあたってメッセージを出されました。今年のテーマは「被造物の声を聞け」です。
→ 「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ (中央協議会) 
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/08/22/25233/

→京都司教区福音宣教企画室作成動画をご覧ください。
「すべてのいのちを守るための月間」にあたって、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」のメッセージを思い起こし、共に祈りましょう。
https://youtu.be/GEfprvjhMyQ

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第22主日のミサ
https://youtu.be/o9Tn22n0F88

■京都教区時報9月号が発行されました。京都教区のホームページから読めます。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/538.pdf
冊子は高野教会聖堂に置いてありますのでお持ち帰りください。

■「シノドス第16回通常総会に向けて ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教―京都司教区の回答のまとめ」の冊子が、京都教区時報9月号に挟み込んであります。
ホームページからも読めます。
http://www.kyoto.catholic.jp/synodos16/synod20220604.pdf

■京都教区 2022 年「青年のための黙想会」のご案内
日時:10 月8日(土)13:00~17:00
大学生や若い社会人の方など、対象となる方がおられましたら、是非お声がけください。
黙想会の概要は、於望洋庵、菅原神父様のご指導、対象者は18歳から35歳までです。
詳細は下記のURLよりご確認ください。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_aa0d34ee41084ee9ad26ad4012d98187.pdf

■京都教区 正義と平和協議会学習会「ウトロ平和記念館とカトリック宇治教会を訪ねる」のご案内
日時:10月10日(月・祝) 9:00京都駅集合 要申込・先着順
詳細は下記のURLよりご確認ください。
http://www.kyoto.catholic.jp/new/seiheikyo/20221010.pdf

■高野教会聖堂正面十字架へのスポットライト、一時消灯のお知らせ
聖堂正面十字架へのLEDスポットライトは、従来は常時点灯していましたが、LED は熱に弱い性質があることから、酷暑の続くこの時期、ライトの保護も必要なため、現在は消灯しています。ご了承ください。

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事のため、期間中通行ができません。

■新しい『ミサ式次第【会衆用】簡易版』の配布について
11月からミサの式次第が新しくなりますので、信徒の皆様の個人使用のための小冊子を、教会で一括注文しました。9月以降、配布方法についてご案内いたします。
この新しい式次第については、菅原神父様が『京都教区時報』に7回にわたって連載記事を書いてこられました。現在、まとめて教区のホームページで読むことができます。ぜひ、ご参考になさってください。
http://www.kyoto.catholic.jp/mass/newmass.html

■教区典礼研修会「新しいミサ式次第の実施について」
日時:9月17日(土)14:00
方式:ZOOM
※ご参加の際は、お手元に新しい『ミサ式次第』、『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』などをご用意ください。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_25cf627c637346c4a774f286ccf77fe8.pdf

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福音朗読 ルカによる福音書(ルカ14章1、7~14節)

 安息日のことだった。 イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、 人々はイエスの様子をうかがっていた。
 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。 あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、 『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。 そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の話はわたしたちにとっては、非常に分かりにくい話であると思います。イエスさまは、食事の席に招かれた人たちが上席を選ぶ様子に気づいて、今日のたとえを話されました。「たとえ」というのですから、これは単なる世間的な知恵や道徳について話されたのではなく、神の国についてのたとえであることが分かります。それにしても、神の国の何についてのたとえであるのか、非常に分かりにくいと言わざるを得ません。普通、このたとえを聞いたら、イエスさまが礼儀作法について話されたとしか考えられません。そして、日本人であれば、何かの席に招かれたとき上席に座る人は先ずありません。それこそ、世間知らずで、社会性がないということになります。ユダヤ人には、日本人のような謙譲の美徳というようなものは通用しなかったのでしょう。ですから、あからさまに上座に座ることを諫めなければならなかったのでしょう。では、日本人は皆が下座に行きたがろうとする、だから謙虚な国民かと言えばそうではありません。教会でも謙遜、謙遜ということをしきりに教えますが、謙遜、謙遜と言っていると、かえって謙遜になる努力をするという傲慢に陥ってしまい、魔境に入り込んでしまいます。謙遜というのは結局傲慢の裏返しであり、同じものなのだということなのです。ですから、傲慢に対して言われるような謙遜というものは、本当の謙遜ではありません。イエスさまがここで言われていることは、自分は自分の座るべき所に座るということを意味しています。

金子みすゞの詩に「私と小鳥と鈴と」というのがあります。

私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに
地面を速くは走れない

私がからだをゆすっても
きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ

鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって、みんないい

わたしたち人間は、鳥でないのに飛んでみようとしたり、鈴でないのに音を出そうとしたりします。わたしたち人間だけが、必死に自分以外の何ものかになろうとしているのではないでしょうか。しかし、そもそもわたしたちがなろうとしている自分とは何でしょうか。「わたしは○○です」と言えるものは、果たしてわたしでしょうか。親との関係では、親であったり子であったり、兄弟との関係では、兄であったり弟であったり、会社では上司であったり部下であったり、部長であったり社員であったり、学校では教師であったり生徒であったり、教会では信徒であったり司祭であったり、ペットとでは飼い主とペットであったり、それらはいずれも関係性の中でのみ成り立っているわたしに過ぎません。そして、わたしたちはそのような自分に拘り続けていきます。確かにわたしの一部でしょうが、それがなくなったら、わたしはわたしでなくなるものではありません。

それでは、もっと根本的な意味で自分とは何でしょうか。名前でしょうか。体でしょうか。魂でしょうか。キリスト教では魂ということに拘りますが、この魂が自分でしょうか。実は誰も分からないのです。何も分からない自分が一生懸命、自分でない何ものかになりたがっているとしたら、こんなに滑稽なことがあるでしょうか。自分など、本当はあるようでもないし、ないようでもないし、何ものでもありません。あるんだかないんだか分からないのに、何か確固としたものが「ある」ように思い込んで、執着している。そして、何ものかになろうとして、必死で努力し、自分を探し続けています。イエスさまは、あなたは自分のことを何ものかのように思い込んで生きているけれど、一度それを手放してみなさいと言われているのではないでしょうか。そうすれば、どちらが上座に座るとか、どちらが偉いとか、どちらが優秀だとかいったことはどうでもよくなるはずです。

わたしの部屋に「赤い実がなる木に、赤い実がなった。木の満足」という言葉が掛けられています。当たり前のことなのですが、この当たり前のことができないのがわたしたち人間なのでしょう。謙遜ということを、わざわざ言わなければ分からないほど、人間は他の動植物より愚かなのです。「謙遜は真理である」と言われます。つまり、ありのまま、小鳥は小鳥、鈴は鈴、わたしはわたしということなのでしょう。そのことが分からないのが人間ということになります。ある人の言葉に、「わたしは神さまのお使いになるほうきです。神さまはわたしをお使いになり、使われた後は、わたしをドアの後ろにお置きになりました」というのがあります。神さまがほうきを使っておられるときに、ほうきはすごい働きをしているのでしょう。しかし、ときが来たら、誰も振り向きもしないドアの後ろ、ほうきが普段置かれている所に直されるということだと思います。そして、そのことについて、ほうきは文句を言いません。この当たり前のことが分からないのが、わたしたち人間です。イエスさまがどうしてこんな分かりにくいたとえを話されたのか考えると、そこまで言わなければ分からないほどわたしたち人間は愚かであるということなのだということでしょう。わたしはわたしがいるところにいること、そのことの大切さを今一度考えてみましょう。

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毎週 10:30~

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