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教会からのお知らせ

年間第23主日の福音と勧めのことば

2022年09月04日 - サイト管理者

信徒の皆さまへ

♰主の平和

朝夕ずいぶん涼しくなり、秋の虫の声が聞こえてきます。
日中はまだまだ暑さが厳しいので、どうぞくれぐれもご自愛ください。
皆さまと一日も早く教会で集える日が来ることを待ち望み、祈りつつ。

■すべてのいのちを守るための月間https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
日本のカトリック教会は、9月1日から10月4日まで、「すべてのいのちを守るための月間」と定め、9月4日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。教皇フランシスコは、この日にあたってメッセージを出されました。今年のテーマは「被造物の声を聞け」です。

→カリタスジャパンのサイトより
https://www.caritas.jp/wp-content/uploads/2022/08/0901-0910-Care-of-Creation-.pdf

→ 「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ (中央協議会) 
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/08/22/25233/

→京都司教区福音宣教企画室作成動画をご覧ください。
「すべてのいのちを守るための月間」にあたって、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」のメッセージを思い起こし、共に祈りましょう。
https://youtu.be/GEfprvjhMyQ

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第23主日のミサ
https://youtu.be/DIHtW74Gx3A

■2021年カトリック京都司教区奈良ブロック聖書講座 大塚喜直司教による講話(全3回)
第1回 人生の意味を問う https://youtu.be/ao3P3mVn7CE
第2回 希望の力 https://youtu.be/nGgXGHKW1iA
第3回 愛といのち https://youtu.be/zujjlKqp2wI

■京都教区時報9月号が発行されました。京都教区のホームページから読めます。
http://www.kyoto.catholic.jp/jihou/538.pdf
冊子は高野教会聖堂に置いてありますのでお持ち帰りください。

■第16回世界代表司教会議(シノドス)の日本の教会の回答書
日本の教会のみなさまへ
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/08/22/25219/
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/Synodus16_jpn.pdf

■京都教区 2022 年「青年のための黙想会」のご案内
日時:10 月8日(土)13:00~17:00
大学生や若い社会人の方など、対象となる方がおられましたら、是非お声がけください。
黙想会の概要は、於望洋庵、菅原神父様のご指導、対象者は18歳から35歳までです。
詳細は下記のURLよりご確認ください。
https://cbe448b2-93d4-4814-819d-1fde23287f13.filesusr.com/ugd/8117f0_aa0d34ee41084ee9ad26ad4012d98187.pdf

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事のため、期間中通行ができません。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ14章25~33節)

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、 イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまに従うということ、自分の家族を憎むということ、自分の十字架を背負うということが問題になっています。今日の福音を注意深く読んでいくと、「イエスさまのもとに来ること」、「家族、自分のいのちを憎むこと」、「自分の十字架を背負うこと」が同格として描かれていることが分かります。イエスさまに従うということは、自分の十字架を担うこと、即ち家族のことを考えること、自分のことを考えることであることが分かります。それは、すべての人間に問われていることだと思います。それでは、先ず家族のことを考えてみましょう。

わたしたちがこの世に生まれて来て、最初に接する自分以外の他人は家族です。家族を他人であるという言い方には抵抗があるかもしれません。しかし、家族も自分ではない人であることには変わりはありませんから、その意味で、一番近い他人が家族であると言えるでしょう。特に家族の中で親は、わたしがこの世界に生まれて来たときにすでにいた人たちですが、初めからわたしの親であったわけではありません。彼らはわたしが生まれたことによって、親となったのであって、最初から親であったわけではありません。わたしが30歳なら、親も30年しか親をしたことはないのです。そのことを多くの人が忘れているのではないでしょうか。そして、親たちは子どもを「自分の子ども」だと思い込んでいます。子どもと言っても、たまたまひとりの人間を預かったのにすぎないのです。にもかかわらず、子どもを自分の思うようにしようとしたり、自分の願望を押し付けようとしたりします。テレビで動物番組をしていますが、そこで動物の子育てを見ることがありますが、動物の親の役割は、子どもが独り立ちできるようになるまで、危険から守って大切に育てることです。そして、子どもが独り立ちできる頃になると、手を掛けなくなるだけでなく、むしろ逆に突き放そうとします。それが、動物の親の役割だからです。しかし、このことは動物の親にはできても、人間の親はそれが苦手のようです。動物の親たちは子どもに、どのように大自然の中で生きていくかその術を教えます。人間も本質的には同じではないでしょうか。人間の親が本当にしなければならないことは、子どもが人間として生きることとは何かを自分で考えられるよう育てることです。子どもに教育を受けさせ良い学校に入れ、よい仕事につけることではありません。子どもが、自分の人生の真実を自分で考えられるように育てることです。その意味では、現代の人間は動物以下かもしれません。たとえ、どんなに素晴らしい親であったとしても、どんなに酷い親であったとしても、わたしが人間として自分以外の人と付き合っていくことを学ぶ最初の他人、それが親であり、家族なのです。親も子も、自分が選んだわけではないということは、それも確かに何かの縁なのでしょう。自分が自分であることを発見する場、それが家族なのでしょう。しかし、家族はそれ以上でも、それ以下でもありません。

こうして、わたしたちは最初の他人である家族との関わりの中で、自分というものと直面していくことになります。それでは、そもそもわたしたちが直面する自分とは何でしょうか。先週の福音では、上座に座ることに拘る愚かなユダヤ人の話が出てきました。そこでは、自分というものが何ものであるのかも分からずに、何ものかのように、何か確固とした「自分」というものが「ある」ように思い込んで、どこまでも執着していく人間の姿が描かれました。イエスさまは、そのようなわたしたちに、自分というものを一度手放してみなさいと言われました。そして、頭の固いユダヤ人たちに分かりやすく、「へりくだるものは高められる」と教えられました。イエスさまは、「高められる」から「へりくだりなさい」と教えることで精一杯であったほど、当時のユダヤ教は膠着化していたのです。結局、人間の駆け引きの中でしか、イエスさまは教えることができなかったのが現実なのでしょう。

それでは、わたしたちがそこまでして拘る自分とは何でしょうか。名前でしょうか。体でしょうか。魂でしょうか。実は誰も分からないのです。自分が何ものであるのか分からないのに、一生懸命自分でない何ものかになろうとしているとしたら、こんなに滑稽なことがあるでしょうか。自分など、本当は何ものでもない、あるようでもないし、ないようでもない。あるんだかないんだか分からないんだから、それを一度手放しなさいということが、「自分のいのちを憎みなさい」と言われていることだと思います。自分の好みとか、自分の拘りとか、自分の才覚や地位、そして自分の罪や弱ささえも、さらに自分の人生さえも、そんなものは何でもないんだと一度自分に死んでみなければ自分のことは分からないし、本当に自分のやりたいことも分からないのは当たり前でしょう。その覚悟のないままに、常に自分が何ものかであるように錯覚し、生涯何ものにもなれず、何ものかになり続けようとします。それでは、イエスさまと出会うということもなく、ただイエスさまを遠くに眺めるか、すれ違って一生を終えることになります。

宗教は、この自分とは何かを問い続けることが本来の役割です。宗教は、人生の問題解決とか心の平和とか、心のもち方や人の道、道徳を教えるのものではありません。自分とは何か、自分とは誰かを究明していくこと、これが宗教です。道元も「仏道をならうということは、自己をならうなり」とはっきり書いています。宗教は何かを勉強したり、聖書の意味を知ったり、またボランティアや慈善事業をする、心の平和や安らぎを求める、そういうことではありません。まして、典礼の儀式を行うとか、ミサの動作ややり方を学ぶとか、教会組織のことが分かっているということではありません。それらは、宗教の入り口として、活動としてあってもいいでしょう。しかし、宗教を学ぶということは、自分とは何かということを問うことです。うわべの自分を理解することではなく、自分の心をどうこうするとか、何かをやることで自分を誤魔化すのでもなく、自分そのもの正体を発見することです。その自分の正体は、深く隠れていてわたしたちには見えてきません。そして、わたしたちは、自分の正体を自分の力では絶対分からないのです。自分の正体は、イエスさまという光に出会うことがなければ見えてきません。その意味では、今の教育、家族のあり方や社会、そして宗教さえもが、自己という問題に取り組むことを妨げてしまっている、それが現代という時代ではないでしょうか。今日、イエスさまが、自分のいのちを憎む、家族を憎むと言われた本当の意味を改めて問い直していきたいと思います。

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ミサの時間

毎週 10:00~
毎週 10:00~

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