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教会からのお知らせ

年間第24主日の福音と勧めのことば

2022年09月11日 - サイト管理者

♰主の平和

高野教会のお庭には季節の花々が咲き、鳩や雀がやってきます。
皆さまと一日も早く教会で集える日が来ることを待ち望み、祈りつつ。

■すべてのいのちを守るための月間
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
日本のカトリック教会は、9月1日から10月4日まで、「すべてのいのちを守るための月間」と定め、9月4日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。教皇フランシスコは、この日にあたってメッセージを出されました。今年のテーマは「被造物の声を聞け」です。

→カリタスジャパンのサイトより
https://www.caritas.jp/wp-content/uploads/2022/08/0901-0910-Care-of-Creation-.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第24主日のミサ
https://www.youtube.com/watch?v=BitCZou6yf4&feature=share&utm_source=EJGixIgBCJiu2KjB4oSJEQ

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事のため、期間中通行ができません。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ15章1~32節)

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
 あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
 
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、よく知られた見失った羊のたとえ話です。同じようなたとえ話が、マタイ福音書の18章にもあります(18:12~14)。似たような話ですから見逃してしまいがちですか、実は違った話であると言っても過言ではありません。マタイでは「ある人が羊を100匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば」と書かれています。ここで、迷い出たのは羊の方であって、羊飼いの責任ではありません。しかし、ルカでは「100匹の羊をもっている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」と書かれています。ここで、見失ったのは羊飼いであって、見失ったのは羊飼いの責任です。それで、99匹を残して「一匹を見つけ出すまで探し回り」ます。マタイは99匹を山に残して探しに行きます。しかし、ルカは99匹を野原に残して探しに行きます。山というのは安全な場所を意味しており、99匹の安全は確保されています。しかし、野原は狼などがやってくる危険なところで、99匹の安全は保障されていません。ですから、マタイとルカでは微妙な違いがあるわけです。イエスさまが別の話をされたという意味ではなくて、初めにイエスさまが話されたたとえがあって、それを分かりやすくするために編集していったということでしょう。おそらくルカのたとえ話が先にあって、マタイがそれを編集したのでしょう。マタイのたとえ話は、管理者的な発想になっており、イエスさまに由来しないと考えられます。

ルカが強調したかったことは、マタイと共通するイエスさまが罪人である人類を見出した時の喜びではなく、その罪人の状況を作り出しているのは、実は自分なのだという神さまの痛み、悲しみを伝えたかったのではないかと思います。マタイは組織的な見方で、羊が自分で出ていって迷子になったと言いますが、ルカは羊を見失ったのは羊飼いであると言います。だから、羊を見失ったのは羊飼いである自分の責任であると言うのです。つまり、イエスさまは、わたしたち人類に罪を犯させ、苦しませ、傷つけているのは自分なのだと言われるのです。それを言いすぎだと言われるなら、イエスさまは人類の罪や苦しみを上から目線で同情したり、憐れんだりしておられるというより、自分の罪、自分の痛みとして苦しんでおられるということなのです。ですから、イエスさまはわたしたちを自分のことのようにではなく、自分のこととして苦しんでおられるのです。だからこそ、人類の側からすれば、わたしたちはイエスさまによって憐れんでもらうことしかない存在であるとことに気づくのです。単に人類を慈しんでおられるのとは違います。勝手に出て行った人類が思い直して、改心して、自分のところへ帰って来るのを待っておられるのではなくて、自分が必死に探しに行かれるのです。  

ルカ15章の続きの放蕩息子のたとえは、非常に分かりやすいたとえですが、気をつけて読まないといけないと思います。なぜなら、人間は自分たちが理解できない神の憐れみを受け取るより、人間の頭で理解しやすい方を好むからです。放蕩息子のたとえでは人間の改心に強調点が置かれ、わたしたちにはより分かりやすい話になっています。わたしたちは、自分はそんなに悪くないし、自分の力で改心できるのだと思いたいのです。そこには、人間の自力を強調するユダヤ教の律法主義が入り込んできているのではないかと思います。これは、人間の本当の闇を見つめようとしていないのだと言えます。

ルカ15章のたとえ話では、自分の力ではどうしても群れに戻ることができない、自分ではどうすることも出来ない人類の罪の深さが描かれているのではないでしょうか。その罪とは、社会的規範に反する行為を意味するのではなく、自分は他の人よりもそれほど悪くない、そして自分の努力や信心で救われると思っていることそのものです。そのことをより一層強調するために、なくした銀貨のたとえが続きます。銀貨は自分の力ではどのようにしても、女の財布に戻ることはできません。ただ、女が自分を見つけてくれるのを待つことしかできないのです。銀貨が自分の力で財布に戻れるとしたら、それこそ、お伽話か奇跡でしょう。この銀貨の有様こそが、如何なる方法でも救われることがない、罪悪深重の凡夫であるわたしたち人類の真の姿です。

しかし、イエスさまは必ずわたしたちを探し出してくださいます。それはイエスさまだからです。イエスさまがわたしを探してくださる理由は、わたしの中には何もないのです。イエスさまは、わたしたちが善人か罪人か、努力しているかしていないか、好きか嫌いか等問題とされません。銀貨に善し悪しがあるでしょうか。イエスさまの願いは、すべての衆生を救いたいという願いです。ですから、それを妨げるものは何もないのです。妨げているとしたら、それは人間の小賢しい計らいです。たくさん祈った人の方が救われるとか、善行をした人は救われる、自分が改心すれば赦してもらえる、努力したものが救われると説明する方が人間には分かりやすいのです。またその一方で、イエスさまはどんな罪人でも救ってくださるのだから、何をやってもいいのだと開き直るのも、人間の思い違いに過ぎません。そうした、小賢しい人間の思いこそが救いの妨げなのです。

それでは、迷った羊はどうしたらいいのでしょう。群れに戻ろうとしても、迷った羊はあまりにも小さすぎて、自分は無力なので何もできません。ただ、自分のいるところにうずくまり、ただ目を天にあげることしかできません。しかし、その眼差しは絶えずイエスさに注がれています。わたしたちに求められているものは、イエスさまに注がれている眼差し、ただイエスさまが必ずわたしを探しに来てくださるという信頼、信頼だけが求められているのです。わたしたちの中に、イエスさまに救ってもらう正因は何もないのです。わたしたちが救われるとしたらその正因はイエスさまご自身なのです。

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