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教会からのお知らせ

年間第25主日の福音と勧めのことば

2022年09月18日 - サイト管理者

♰主の平和

新型コロナの感染者数が少しずつ減ってきて、ミサの再開が待ち遠しい今日この頃です。お変わりございませんか。
19日は敬老の日です。コロナ前、高野教会では敬老の日に近いミサの中で、敬老の祝福が行われたことを思い出します。高野教会のご長寿の皆さまのために、心を合わせてお祈りします。
連休ですが、大きな台風が近づいています。大きな被害がないことを祈りつつ。

■すべてのいのちを守るための月間(9月1日から10月4日)
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20751/

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第25主日のミサ
https://www.youtube.com/watch?v=k_40EQGD7pI&feature=share&utm_source=EJGixIgBCJiu2KjB4oSJEQ

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
8月22日(月)~9月30日(金)の間、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事のため、期間中通行ができません。

■京都教区本部事務局より「衣笠墓苑物故者及び死者祈念ミサ」中止について
11月6日(日)に、カトリック衣笠教会で予定されております衣笠墓苑物故者及び死者祈念ミサ(衣笠墓苑合同追悼ミサ)は、本年も中止いたします。尚、当日、大塚司教によって、京都教区すべての物故者のためにミサが捧げられます。皆様も心をあわせてお祈りください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ16章1~13節)

 [そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。]   
「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はルカ福音書にだけに見られるたとえ話です。マタイ、マルコにも並行箇所が見られないということは、ルカの関心事によって編集されたとみることが正しいでしょう。それにしても、今日の箇所はイエスさまの話として理解しがたいものがあります。そもそも、このようなたとえ話をする意図を理解することが非常に難しいものがあります。

「不正な富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」、「神と富に使えることはできない」というのが、今日のたとえ話の結論であると考えられています。不正にまみれた富というのは、不正義な手段で手に入れた富という意味ではなく、この地上の富という意味です。そのことから考えていくと、当時のルカの教会が置かれていた状況というものがあるのではないかと思われます。つまり、果たして教会が「本当に価値あるものを任せられている」という意識があるのかどうか、あるいは「本当に価値あるものを任せられる」ものであるかどうかという問いかけがあったのではないかと思います。ルカの教会は、ユダヤ教から独立し、異邦人宣教に向かっていった教会です。教会が教団として広がっていき、組織が大きくなっていくと、どうしても自分たちこそ選ばれた集団であるという意識をもつようになります。そして教団の体制を整え、財産を管理していくという問題も出てきます。その上で、その当時の社会と対峙していくわけですが、それは同時に当時の現実の社会と距離をとっていくことを意味していました。そして、自分たちの教団に入れば救われるが、入らないものは救われないというような考え方を持つようになっていきます。そのようにして教会は自らのアイデンティティを作っていくのですが、そのことによって、教団は既成宗教に成り下がり、宗教としての本来の役割を果たさなくなっていく、という危機感が当時のルカの教会の中にあったのではないかということだと思います。

現代のキリスト教はどうでしょうか。時代や社会から、かけ離れた教えや制度、組織を護持し、自分たちは特別だという意識に拘っていないでしょうか。「愛山護法」という言葉がありますが、現代の教会も信徒に教団への忠誠、愛を要求し、教団の教えを守ることに拘っているように見えます。そうなると、教会は益々社会から乖離していき、社会は宗教を必要としなくなっていく、そして教団も本来の宗教の使命を生きずに特定化していくという悪循環に陥ります。これでは、現代人の本当の魂の要求に応えることができなくなっていくのも当然でしょう。つまり、教団そのものの現状に問題があるということを、教会は常に意識していかなければならないということだと思います。教団の上にあぐらをかき、そこに安住すると、その教団は益々現代の社会から離れていきます。いくら自分たちの宗教は真理を持っている、「本当に価値あるもの」を持っているんだ、と主張したところで、これでは宗教としての役割を果たしているとは言えません。ですから、教団の中にいるものは、絶えず自分たちが作り出している枠を取り払うという意識を持っておく必要があるのだと思います。これは、誰にでも分かりやすい教えにするとか、人間的なやり方に迎合するという意味ではありません。それなら、単なる世俗社会になってしまいます。

カトリック教会はどこまでいっても完璧で、普遍的であるとかいう考え方は錯覚ではないでしょうか。教会はあくまでも神の国、人類すべての救いのための道具であって、その役割が終われば消滅するものであるという意識を絶えず持っている必要があると思います。カトリックの人だけは救われるから、皆さんカトリックになりましょうと言うのなら、これはイエスさまの教えとは違ったものになってしまいます。すべての人類が救われるためであれば、カトリックがなくなっても構わない、というのが宗教の本来の姿でしょう。自分たちのいる教団だけは生き残ると言うのなら、これはイエスさまの教えに反しています。これなら単なる宗教的エゴイズムでしかありません。しかし、どうしても教団の中にそのようなエゴイズムが入ってきます。外づらはキリスト教、しかし内側は、もっとも酷い宗教的エゴイズムということが起こってくるのです。それでは、イエスさまなくして救われるのかと言えばそうではない。真理であるイエスさまを通してしか、人間が救われることもないということも真実なわけです。真の宗教は、病気が治るとか、お金持ちになるとかそういうものではありません。人間自体を問うということ、真理を追い求めていくことが、宗教の本質的なあり方です。人間を問うということは、イエスさまを問う、真理であるイエスさまと出会うということです。その意味で、今日の福音は、あなたがたは「本当に価値あるものを任せられる」ように生きていますか、あなたがたは真理の受け皿になっていますか、ということが問われているのだと思います。わたしたちは、「神と富に使えることはできない」という言葉を生きているかどうかが、教団に、そしてわたし自身に問われているのだと思います。 

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ミサの時間

毎週 10:00~
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