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教会からのお知らせ

年間第27主日の福音と勧めのことば

2022年10月02日 - サイト管理者

♰主の平和

金木犀の香りが漂い、10月になりました。
先週よりミサが再開され、引退された花井神父様への感謝のひとときも過ごすことができ、よい再開ミサになりました。花井神父様は引き続き高野教会にお住まいになります。
ロザリオの月です。共に祈ることはできませんが、すべてのいのちを守るために心を合わせて祈りを捧げたいと思います。

■今後のミサ予定 
ミサの開始時刻は10:30からに変わりました。
コロナ感染対策が少し厳密になりました。ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読となります。また、ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。詳細は「ミサ実施要項」をお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

10月
2日㊐ AC地区 年間第27主日のミサ  10:30
8日㊏ ミサなし
9日㊐ ミサなし
15日㊏ AC地区 年間第29主日のミサ  10:30
16日㊐ BD地区 年間第29主日のミサ  10:30
22日㊏ BD地区 年間第30主日のミサ  10:30
23日㊐ AC地区 年間第30主日のミサ  10:30
29日㊏ AC地区 年間第31主日のミサ  10:30
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ  10:30

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。説明や小冊子の配布は、近々行う予定です。しばらくお待ちください。
詳しくは、京都教区のHPをご覧ください。https://kyoto.catholic.jp/mass/newmass.html

■京都教区時報10月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてあります。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/539.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第27主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=f0OHI6NgrrY&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ

■すべてのいのちを守るための月間(9月1日から10月4日)
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20751/

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ17章5~10節)
 
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は信仰をどのように捉えるかという問題です。弟子たちが考えていたことは、何かをすれば自分たちの信仰を強くすることができるということです。わたしたちは、信仰を人間の心のもち方の問題のように考えていますが、弟子たちも信仰を、不可能なことを可能にするような力、例えば病気を治したり、他人を幸福にしたリ、人々を救ったりできる能力と考えていたように思います。それに対して、イエスさまは「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と話されます。確かにわたしたちがどんなに頑張って、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命令しても、そのようにはなりません。そうすると、弟子たちもわたしたちにも、からし種一粒の信仰もないということになります。からし種は、この世界でもっとも小さい種のひとつですから、わたしたちにはからし種一粒の信仰もない、つまり、わたしたちは信仰をもっていると思っているけれど、それは錯覚で、勘違いなのだということだと思います。わたしたちは、信仰をわたしたちがもっている、あるいはわたしの信仰であると思っていますが、もともとわたしの信仰などないということだと思います。

信仰というと、たいていの場合はわたしたちの心のもち方とか、信念であるとか、神仏への恭順の心だと思っています。日本語の言い方はそのことをよく表しています。「あの人はお稲荷さんを信心している」とか、「あの人はアーメンを信仰している」とか言います。それは、その人がどの宗教に属しているかであって、まさに信じているわたしの心、わたしの信心のことを指しています。そして、「あの人はお稲荷さんを強く信心している」とか、「あの人は熱心に教会に行っている」とか、「一生懸命、奉仕活動をしている」という言い方をします。それらどこまでもいっても、わたしたちの人間の意識活動としての心のあり方、生き方として捉えていきます。ですから、わたしたちは意志の力で、信仰を強くも弱くもできるのだと考えているのです。しかし、少し考えてみると分かるのですが、わたしの意志の力では、わたしの心をコントロールすることはできません。

わたしたちが信仰をそのようなものだと思っているなら、今日のイエスさまのたとえ話にあるように、一生懸命働いて帰ってきて、主人がご褒美に「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言ってくれると思っている愚かな僕と同じだということになります。イエスさまは、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝しはしない」と言われます。つまり、あなたがたが考えている信仰の理解、それ自体が間違っていますよということを言われたのです。

わたしたちは皆愚かで、イエスさまを信じて熱心に教会に行けば、真面目に生活すれば、一生懸命職務を果たせば、つまりわたしが何かをすれば、イエスさまがご褒美に天国に迎え入れてくれると信じているのではないでしょうか。そして、そのようなことを信仰であると思い込んでいます。イエスさまは、そんな信仰理解はわたしと駆け引きをしているだけであって、真の信仰ではない。そういう人間の思い込みをすべて捨てて、空の手になって、わたしに任せなさいと言われているのです。わたしたちが信仰して、立派に働いて、その報いとして救われるのではないということです。

イエスさまの救いは、どのようにしても救いようがないわたしたち人類を救うという、ただ憐みの心によってなされるものです。自分の力で一生真面目に努力して、それで救われるのであれば、イエスさまはいらないことになります。ですから、表面的にはイエスさまを信じていると言いながら、イエスさまを疑い、自力で何とかしようとして、実はイエスさまなどいらないと言って背を向けている、“救われがたいわたし”であることを知っておられたイエスさまが、わたしたちを救うという計画を起こしてくださったのです。そのようなイエスさまの深い深い憐れみの心を、わたしたちがそう簡単に理解できるはずがありません。

イエスさまの心は、わたしが祈りをする、ミサに行く、犠牲をする、人を助けることの見返りで救ってもらおうと思っているような姑息な心とはまったく異なったものなのです。ですから、わたしたちは何をしたところで、何を頑張ったところで、イエスさまの救いに関係ないのです。ただイエスさまがわたしを救うと誓われたその心が、わたしたちのうちに届けられてきたもの、それが信仰に他ならないのです。信仰は、わたしの心のもち方とか、わたしの心の問題ではありません。イエスさまが何としてもあなたを救うと誓われたその心が、恵みとしてわたしに与えられ、わたしと出会い溶け合ったものが信仰に他なりません。だから、わたしの信仰といっていますが、わたしの信仰など初めからないのです。その信仰は与えられたものであり、そしてわたしたちが受け取らない限り、信仰にはならないのです。わたしが信仰を守るとか、わたしが信仰を強くするなどということ自体、本来あり得ないことなのです。

イエスさまから、そのような信仰が届けられていることに気づいた人は、わざわざ遜って謙遜してではなく、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と、自然とそのような言葉が出てくるのでしょう。なぜなら、その人は自分が何かよいことをしたとしたら、それは自分ではなく、自分の中のイエスさまであることを知っているからです。わたしの中に、何ひとつとして、イエスさまによって救われるような種は何もないのです。ただ、イエスさまによってわたしの心に蒔かれた種があるだけなのです。それをわたしのものだというなら、それ自体が大きな勘違いに他なりません。わたしたちのうちに種がまかれているということ、そのイエスさまの働きに気づくこと、これこそがわたしたちの真の信仰生活の始まりなのです。わたしがあれをやった、これをやったと言っているうちは、洗礼を受けただけで、わたしたちは何もしていないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。