年間第29主日の福音と勧めのことば
2022年10月16日 - サイト管理者♰主の平和
10月、ロザリオの月。寒暖差の大きい毎日が続いていますが、お変わりございませんか。
皆さまは、高野教会の集会室の南側に植えてある皇帝ダリアをご存じでしょうか。
2008年の長崎での列福式の際に持ち帰った挿し木用の茎から育てたものです。
今年も屋根よりも高く成長しています。11月に入ったら、きれいな花が咲くのが楽しみです。
いつもお庭のお世話をしてくださる方々に感謝します。
■今後のミサ予定
ミサの開始時刻は10:30からに変わりました。
コロナ感染対策が少し厳密になりました。ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読となります。また、ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
詳細は「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
10月
16日㊐ BD地区 年間第29主日のミサ 10:30
22日㊏ BD地区 年間第30主日のミサ 10:30
23日㊐ AC地区 年間第30主日のミサ 10:30
29日㊏ AC地区 年間第31主日のミサ 10:30
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ 10:30
■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を、教会でまとめて購入しました。ミサの時に希望者にお渡ししますので、受け取りになられたら必ず冊子にご自分のお名前をご記入ください。なお、1冊100円の献金お願いします。
詳しいことが京都教区のHPに書かれていますので、準備のためにぜひご覧ください。https://kyoto.catholic.jp/mass/newmass.html
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第29主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=atXoeoIWvO8&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ
************************************
福音朗読 ルカによる福音18章1~8節
(そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
************************************
<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子にたとえを話された」という書き出しで始まります。そして、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして信仰を地上に見出だすであろうか」と締め括られます。
今日のたとえ話は、正直なところ何が言いたいのかよく分かりません。そのまま読むと、不正な裁判官でもうるさいやもめの訴えを聞くのだから、なおさら神さまは選ばれた人たちのための訴えを聞き、裁きを行ってくださる、だから絶えず祈らなければならないという教訓話になります。裏を返せば、どのようにすれば神さまはわたしたちの祈りを聞いてくださるのかという問いがあったのではないでしょうか。神さまの善良さを説明するためなら、不正な管理人の話をもってくるまでもありません。酷い裁判官でそうなら、よい神さまなら、なおさらのことだというのであれば、あまりにも普通の人が考える話です。
このように、善し悪しで物事を分けて考えると分かりやすいのです。だから世間一般でも、教会でもそのような教え方になっていきます。わたしたちの中でも、悪いことを避け、善いことをすれば救われる、だから、善いことをして、まじめに教会にも行く。そして、祈りも、たくさん祈った方がよく聞いてもらえるんじゃないか、ミサもたくさん参加する方がいいんじゃないか、たくさん献金する方が祈りを聞いてもらえるんじゃないか、という考え方になっていきます。世間の大抵の宗教は、そのような道理で教えていると思います。残念ながら、キリスト教もそのように理解されているのではないでしょうか。これなら、断悪修善、勧善懲悪の世界です。つまり悪いことを断って、善いことを行え、神さまは悪を懲らしめ、善に報いてくださるという発想に基づいた教えです。その教えは説得力があり、誰にでも分かりやすいのです。そして教義的にも説明しやすい。しかし、イエスさまが言われたことは、そんな陳腐な話なのでしょうか。
聖書を読んでいくと、イエスさまの心はそのようなものとはまったく違うことが分かります。たとえば、復活したイエスさまと出会ったパウロは、まったく反対のことを言います。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためにいのちを惜しまないものならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ロマ5:7~8)」といいます。また、パウロは、自分がキリスト信者を迫害していたことを念頭に、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした(Ⅰテモ1:15~16)」と言います。パウロは心底、自分が罪人であることを感じていました。それは、キリスト信者を迫害していたという過去の罪の反省からではなく、キリスト者となった今でも、外ずらはキリストの使徒として働いているけれど、自分の内側には罪が蠢いているという真摯な自覚があったのだろうと思います。
パウロは、次のようにも言います。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです・・・そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:14~19)」。
パウロは、わたしたちのようにたくさん善いことをして、たくさん祈って、犠牲をして、イエスさまに救っていただこうなどという表面的な捉え方をしていません。いくら立派な説教をしていても、自分の内面を見たとき、そこにはありとあらゆる欲望や悪意、妬み、嫉妬、貪りが蠢いている自分が歴然としていることに気づいていたのでしょう。だから、自分は「罪人の中の罪人」であり、決して人々の模範ではない、こんなわたしでも救われるのだという見本(サンプル)にすぎないなのだ、それこそがパウロの福音宣教の原点、パウロの祈りであったと思います。
絶えまない祈りによってわたしたちが触れていくのは、イエスさまの心です。イエスさまの心に触れていくと、自分の力だけではどうすることもできない惨めな、愚かな自分を発見します。しかし、同時に限りない憐れみによって憐れまれて、慈しまれている自分をも発見します。イエスさまがすべての生きとし生けるものを救うと誓われたその心がわたしの中に入ってくるので、イエスさまが罪人であるこのわたしのために十字架の上でいのちをかけてくださったことが分かるのです。イエスさまは確かに全人類、全被造物の救い主、贖い主です。しかし、イエスさまはわたしの救い主、贖い主なのです。全人類と言っている限り、それは他人事でしかありません。しかし、イエスさまのことがわたしのこととなるとき、初めてイエスさまが全宇宙の主であり、全人類の救い主であることにもうなずけるのです。
神さまは慈しみぶかい方なので、酷い罪人も救ってくださるのだから、善人になれば当然救ってくださると考えている間は、わたしたちはまだキリスト者ではないのです。外面は善人でキリスト者かもしれませんが、内側は私利私欲と強欲に満ちた、蟻地獄のようなわたしなのです。わたしたちは「よくやった。頑張った」と誉められて助かるのではないのです。イエスさまに憐れまれて、悲しまれて助かるのです。「気を落とさず絶えず祈りなさい」というのは、わたしたちはイエスさまに憐れまれ、悲しまれている罪人でしかないという自覚に他なりません。イエスさまは、わたしたちが自分の力ではどうすることもできない罪人であることを知って、放っておけず、救いの誓いを立ててくださったのです。信仰とは、そのイエスさまの悲しみを分からせていただくことなのです。このようなイエスさまの心が、わたしたちに簡単に分かるはずがありません。せいぜい酷い裁判官と比べることがやっとなのです。だから、イエスさまは「人の子が来るとき、果たして信仰を地上に見出だすであろうか」と訝しがられたのかもしれません。
しかし、イエスさまが救うと誓われたということは、その誓いは常に今、成就されています。そして、わたしたちはその心を今、頂いているのです。だから、わたしたちは祈りにおいて、駆け引きとか、義務的に祈るのではなく、自分のはからいをかなぐり捨てて、そのまま頂きますというとき、わたしたちの心はイエスさまの心とひとつとなるのです。そして、そのような人はパウロのように、イエスさまの協力者となっていきたいと願い、またそうなっていくのではないでしょうか。