information

教会からのお知らせ

年間第30主日の福音と勧めのことば

2022年10月23日 - サイト管理者

♰主の平和

「私はロザリオに親しんできてよかった。病院での待ち時間も苦にならないの。」
先日、ある方がおっしゃいました。
コロナの間にご病気になられたり、体が弱られたりして、ミサに来られなくなられた方々のためにお祈りしたいと思います。
ロザリオの月も終わりに近づいてきました。

■今後のミサ予定 
ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読となります。
また、ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。詳細は9月17日㊏にお送りしましたメール「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

10月
15日㊏ AC地区 年間第29主日のミサ  10:30
16日㊐ BD地区 年間第29主日のミサ  10:30
22日㊏ BD地区 年間第30主日のミサ  10:30
23日㊐ AC地区 年間第30主日のミサ  10:30
29日㊏ AC地区 年間第31主日のミサ  10:30
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ  10:30

11月
5日㊏ BD地区 年間第32主日のミサ  10:30
6日㊐ AC地区 年間第32主日のミサ  10:30
12日㊏ 第2週につき、ミサはありません
13日㊐ 第2週につき、ミサはありません
19日㊏ AC地区 王であるキリストのミサ 10:30
20日㊐ BD地区 王であるキリストのミサ 10:30
26日㊏ BD地区 待降節第1主日のミサ  10:30
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ  10:30

■毎年、10月の最後から2番目の主日は、「世界宣教の日」として、全世界のカトリック教会で記念される日です。
2022年「世界宣教の日」教皇フランシスコのメッセージ「あなたがたはわたしの証人となる」(使徒言行録1・8)をお読みください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/06/24467/

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を、教会でまとめて購入しました。ミサの時に希望者にお渡ししますので、受け取りになられたら必ず冊子にご自分のお名前をご記入ください。なお、1冊100円の献金お願いします。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第30主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=MfIhjdO4Ez0&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ

************************************

福音朗読 ルカによる福音(ルカ18章9~14節)

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

************************************

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえは、ファリサイ人と徴税人の祈りのたとえ話です。分かりやすいたとえのようですが、ことはそれほど簡単ではない難しい問題をはらんでいるように思います。確かに、わたしたちは、奪い取るものでないこと、不正を行わないものであること、姦通を犯すものでないことは善いことであることを知っています。週に2回断食し、収入の十分の一を献金することも善いことに違いありません。そこでよく考えてみると、ファリサイ人の祈りというのは、わたしたちの思いでもあるということが分かります。あそこまで露骨に言わなくても、わたしたちは教会の掟を守って、善人になる努力をして、ミサに行って、献金もきちんとしています。ですからイエスさまは当然、わたしたちを善い人間として、義としてくださると思っているのではないでしょうか。

だれもが善いものでありたい願いますし、実際にそうでしょう。わたしは悪人であると開き直る人もいますが、大抵は善い人になりたいと思っています。そして、わたしたちは、善いことをすることで救われ、悪いことをすれば救われないと思っています。つまり、わたしたちは自分の生き様で救いが決まってくると考えているのです。だから、悪い人がのさばっているのは許せないし、戦争をする人や犯罪をするものは許されない、この世は勧善懲悪の世界であるべきだ、そして当然、神さまもそうだと思っているのではないでしょうか。

しかし当時、罪人とされていた徴税人は、自分の徴税人としての身分を変えることはできませんでした。現代なら、戦争に行きたくないと思っていても、国から徴兵されれば戦争に行き、人を殺す側にならざるを得ません。戦場では、殺す側にならなければ、自分は殺される側になってしまうのです。また、だれも酷い親や家庭に生まれたいと思う人はいません。しかし、わたしたちは選べないのです。

もし、今わたしたちが、キリスト者で、教会に来られていて、イエスさまのことばを聞く機会に恵まれているとしたら、それはわたしの手柄ではないのです。ただ、そのような縁に巡り合わせていただいただけなのです。いくら善人でありたいと思っていても、自分の身を自分で決められないことが起こってきますし、皆それぞれに業を背負っています。生まれた状況や立場によって、善悪はころころと変わっていきます。親鸞は、自分は善人だと過信している人々に、「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人を殺すこともあるべし」と言います。そして、「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」と言い、何をしでかすか分からない不気味で不安定な存在としての自分を見つめています。

わたしたちは、今、奪い取るもの、不正を行わないもの、姦通を犯すもの、殺すものでないかもしれません。しかし、それはたまたま神さまの恵みでそうであるだけであって、善人の顔をしているけれど、何をしでかすか分からない存在なのです。外面は善人の顔をしていても、自分はあの人や他の人よりはましだと心の底では思っている、そして心には怒り、腹立ち、そねみ、ねたみが蠢いている、そのような地獄を抱えている存在ではないでしょうか。そして、嫌いなあいつは救われてほしくないが、自分は救われたいと願っている存在なのです。善を行わなくていいと言っているのではありません。自分はまともだ、自分は正しい、自分は善人だと思っていること自体が迷いなのであり、イエスさまの救いに背を向けていることに他ならないということなのです。世界中の人が救われても、わたしは救われないものだ、ということが心底分かることが本当の恵みではないでしょうか。

今日のたとえ話を注意深く読めば、イエスさまによって見抜かれているわたしがいることが分かります。わたしはいかなる善行や祈り、犠牲によって救われる身ではない、そのままであれば地獄行きの身であることを何とかかばって隠そうとしている、そのような身であることをイエスさまによって見抜かれているわたしたちなのです。わたしたちは誰一人として、イエスさまにわたしは慈しんでもらうに値するものだとは言えないのです。自分こそは正しいと思っている限り、自分が地獄を作り出している身であることなど分かるはずがありません。イエスさまの憐れみの心に触れるときに、はじめてわたしが何ものであるかに気づかされるのです。

わたしは自分で善を作り出していくなど、まったく不可能な存在です。わたしたちは、「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」としか言えない身なのだということに気づかされます。そして、この救われがたいわが身を救うという誓いこそが、イエスさまの心、真実であることが分かります。そのイエスさまに心に触れることによってしか、わたしたちは自分を見つけることはできませんし、本当のイエスさまの真実が知らされることもないのです。どこまでいっても、キリスト者と言いながら、イエスさまと表面的な駆け引きの世界に沈んでいくわたしがいるだけなのです。わたしたちは、「イエスさま、罪人であるわたしを憐れんでください」としか言えないものなのです。しかし、そのとき、わたしは罪深い身のまま、救われていることにも気づかせていただけるのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。